来年のこと

Img_0146 10月に来年のことを書いたら、鬼が笑うか?

まあ、来年の「ほぼ日」手帳である。昨日届いた。

ここ何年か、この手帳を使っている。表紙は緑色の牛革を、これまた何年か使っている。したがって、新しくするのは中身だけということである。

来年はどんな年になるんだろう、なんて、まだ今年がどうなるか分かったものでもないのに今から気にしたってしょうがないことは分かっている。が、手帳屋は気が早い。この時期に買わないとほんとに考えないといけない時期にはもう“それ”無いよ、ってな具合に、こちらが気に入って使いたいと思う手帳の品切れをいとも容易く宣告するのである。

ほぼ日手帳が良いと思うのは、ページの脚注に、いろいろなありがたいお言葉が印刷されているからかなあ。今年の手帳もぱらぱらめくってみると、白いページが相当目に付く。熱心に書くほうではないな。メモは専ら携帯電話のスケジューラーに入れてしまうのでほぼ日で管理する必要も無いのである。

しかし、この手帳を買ってしまうのである。よっぽど脚注が気に入っているのである。Img_0145 改めて、来年はどういう一年になるんだろう。10月半ばに届いた手帳、開封していないので中身は分からない。でも、表紙を見ていると、どういう一年になるんだか気になるのである。

新手帳は、透明なビニル一枚で、ぼくの行く手を阻んでいる。たいした奴なのである。または、新しい年といっても、たかがビニール一枚ほどの隔たりしか無いと言うことか?

来春は、東京で迎えることになりそうである。いろいろあったが、この街ともおさらばするときが来たみたいなのである。

ビニール、一枚分の隔たり・・・

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マイケルブレッカーのこと

マイケルブレッカーが13日になくなったそうである。昨日知ったのであるが、結構泣けてしまった。

十数年来ジャズの演奏をしてきて、最近すっかり止めてしまったのであるが、その手本にしていたのがマイケルブレッカーであった。といってもテクニックで及ぶはずは無く、雰囲気というかまあそんなところでである。

コルトレーンを今風に進化させたような芸風の人であった。テナーサックス界ではおそらくそのテクニックと音楽創造にかかわるアイディアでは群を抜く人であったと思っている。よく練習をする人としても有名でもあった。

大事な人をこの世界は失ったんだと思う。皆が言っているように、まだまだジャズシーンを牽引して行って欲しかった人である。

悲しいことである。ホントに悲しいことである。ご冥福をお祈りする。

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ほぼ日手帳のついて

トラックバックがついたのをきっかけに、ちょっと書いてみることに。

しばらく使っていなかったほぼ日手帳を、来年は使うことにして一冊購入した。緑色の皮のカバーが付いているやつ。なかなか、よろしいと思う。皮にしたのは毎年使えるだろうし、ゆえに安上がりであると思ったから。

以前利用した年は、あまり書かないで終わってしまった。来年はぎっしり書こうと思っている。今は。

どういう写真を撮るか、思いついたらすぐに書こうと思っている。まあ、ネタ帳である。私の写真は、スナップではないので考えてから撮影することになる。その割には、安易に撮影してるって、ほほほ、そうね。そうかもね。

来年の目標は、文字を書く、とした。元旦に考えたほうがカッコええのかもしれないが、もう決めてしまって、一ページめに書いてしまったのさ。

ほぼ日手帳は、書くところがいっぱいあるし、いい塩梅に線が引かれているので使いやすい。「絵」を書き込むのにも都合がよいのである。下手な絵ではある。

写真はレディーメードであるから、どう写すかが分かれ目となると思っている。究極のレディーメードである。便器を写真にとって、「泉」と題して見るのも良いかも。

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印画紙

_img070 写真を焼いた。ホームページにアップする写真を見ていたら、無性に引き伸ばしをしたくなった。

自分の部屋に引き伸ばし機があるので、ヤフーで買った暗幕を引くと、そこは暗室。もっとも、夜しか使えない。その程度の暗室。

黒がしまった自分としては満足の一枚。近所の小川である。

印画紙はフジブロWP2号紙。この印画紙に合わせてフィルムは少し軟らかめに現像してあった。ドンピシャな調子であると、悦に入っている。

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川の流れ 昨日の撮影

 昨日撮った写真である。

まいどまいど訪れる家からそう遠くない山の中である。実際今まで何度訪れたか分からない。_img068標高は1200メートル程であるが、懐は深い。
 

この写真はいつも使っている現像薬とはことなる新しい薬品による。
現像時間が以前のより短くてすむ。リキッドタイプであるため溶解後すぐでも使える。値段も少し安い。いいことばかりである。が、一度に大量に作らないといけないので、保存する瓶が大変である。  

しばらくはこの薬品で行く。まあ、環境のことに配慮するんだったら、Xトールというのもあるんだが・・・

大判で撮る撮影そのものが楽しいので、結局、フィルムはそれに見合う大きさを選ばざるを得ない。いちどフォルダーを利用して、ブローニーフィルムで間に合わそうと思ったものであるが、撮っているうちに欲求不満に陥り、精神衛生上このましくないなあということで大きなフィルムに戻ってしまった。

車もそうであろうが、一度大きな車に乗り付けてしまうと小さい車に乗るとどうも疲れるような気がする。気のせいなのだが、疲れるのである?

知り合いからカラーで撮るように勧められているが、もうすこし白黒の目を養ってから、と思ってもいる。ズーっと白黒のままかもしれないが。                                        

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T-MAXRSであること

フィルムを自分で現像している。

今日はじめての現像剤を使ってみた。コダックのT-MAXRSである。前回までの現像は、やはりコダックのD-76原液現像。きょうのは、1:1の希釈現像指定の珍しい薬。

メーカー指定の現像時間は8分である。温度は20度。今使っている引き伸ばし機が集散光式というやつなので、これまたメーカー指定の、90%に時間を短縮。

なかなかよい結果となった。さすがはフィルムとおんなじ名前を使っていることはある。この現像薬を変えるというのは結構勇気の居ることである。メクラ現像(差別用語?)であるので、タンクの蓋を取るまでは結果が分からない。完璧暗室がないので、この方法をとるしかない現実。

結果がよければ全てよしである。しばらくはこの薬をつかおう。メーカーがいつまで作ってくれるかわからないが・・・

今日は、午前中、久しぶりに近所の山へ写真を撮りに出かけた。三月ぶりぐらいではなかろうか。方々へいっていたので、マイフィールドから足が遠のいてしまった。

やっぱり、慣れているところはよい。何がどこにあるかよく分かっているので、同じロケーションを探すにも楽である。ただ、ここは、スケールがあまり大きくはない。ちょっと残念ではある。

明日、今夜現像したフィルムをアップできると思う。ネットで見たんじゃ、粒子がどうの仕上がりがどうのというのは無理ではあるが、山の雰囲気は分かると思う。

明日の心。ん?

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タチハラフィルスタンド45

Tachia111 タチハラフィルスタンド。

この4×5インチの大判カメラは木で出来ている。

特にこのカメラがどうと言うのではない。

このカメラを大きめの三脚に取り付け街や村や花を撮っている。

その雰囲気が大好きである。
撮った後は自分で現像、プリントが原則である

写真の昔からある楽しみ方である。

よく画質重視なんですねえと、ほかの方から言われる。こちらは、あいまいに返事をしている。

このカメラを使うのは、画質を重視しているわけではない。もちろん、結果として画質そのものの幅広さといったものを楽しむわけである。が、その前に写真を撮る雰囲気を楽しみたいのである。大きい画面で撮りたいものを見つめることが出来る。ピントを合わせるために虫眼鏡を小さくしたようなピントルーペというので隅々まで確認する。手間である。

そこがよいのである。昨今流行のデジタルカメラを否定するものではない。仕事では使っているし、使い方も堂に入ったものであると思っている。だが、仕事を離れた、アマチュアの楽しみは、好きなように、勝手に、思う存分、我儘でありたい。

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天気

 昔、カーペンターズの「雨の日と月曜日は」というのを好きで聞いていた。

 写真を撮りに出るとき、最近2~3年、雨の日風の日霧の日が好みである。カメラをかついて出かけるのは、圧倒的に土曜日なのであるから、晴れた日だってある。そんなときは、結局ドライブになってしまう。

 土曜日以外の日は、仕事の環境的には出かけることも問題はない。が、なんだか遊んでいるようで、世間様に申し訳ないわけで、控えることとなる。

 今日も雨である。ホントは撮りに出たいところ。秋の花が咲き始めている。それは分かっている。住んでいる東北地方はここからが早いのであるから、ちょっと焦る。雪が降ってしまったら、それはそれでとても嬉しい、が、秋っぽい写真を撮りたいと思っているのでどうも。

 ことしは、フィルムを白黒専業ということとしているので、秋の紅葉も花も渓流の流れも全てトーンを意識的に見せる撮り方を工夫するしかない。また、今使っている大判カメラはそれが可能なのであるから悩みは大きい。

 まあ、あと何年生きられるか分からないから、せいぜい精進するつもりである。

 

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アポジンマー180mmf5.6

 どの時代のものであろうか、詳しくは知らないがシュナイダーというメーカーが作ったレンズである。大判カメラのために設計されているので一般の方で知っている方はそう多くはあるまい。

 現在もメーカーは作り続けているが、値段があまりに高くてとても手は出せない。行きつけのカメラ屋で、このレンズは今使っている日本製より「よい」と熱心に言うものだから、別にわたしは国粋主義では全くないが、ちょっとムッとしてしまった。そもそも4インチ×5インチのフィルムを使うカメラのこととて、レンズが描く微妙な違いが、好き好きは分かれるところであろうが、「よい」か「わるい」というそのものの価値判断に及ぶはずはないのである、とまあ信じている。

 そこでである。自分の使っているレンズとアポジンマーを、撮り比べさせていただいた。まあ、焦点距離が異なっているので、多少の雰囲気の違いはあるが、「写り」に関しては並べてみれば分かるというもの。幸い、フジフィルムのフォトラマのアダプター(いわゆるポラロイドの日本版)を持っているので、すぐに結果を比べられる。

Img052_r1 この二枚の写真を見てその差を見分けられる方がどのぐらい居られるだろうか。どちらがどうだということを申し上げることは差し控えるが、露出は全く同じで2分の1秒で、絞りは8である。左がフジの150ミリ、右がアポジンマーの180ミリ、焦点距離が異なっているので多少写りかたに違いはあるが。値段は中古市場でも3倍高いのがアポジンマーである。

 この写真を見せて、来たお客さんに感想を伺ったところ、「互角」との意見が全部であった。無論、アポが特段雰囲気のよい画像を提供してくれるんだったら、即買いということにもなったであろうが、これでは高いお金を払う価値は全くないと思ってしまった。あっ、どちらがどうとゆっているのと同じではないか、はは。

 まあ、こんな比較をして楽しむのも、豊富な種類を持つ大判カメラのレンズの楽しみ方でもある。各国、写真が発明されたときからのレンズを全て共通で使用できるのはこの手のカメラのみであろう。ややこしい変換アダプターや、ほかのを付けることで露出計が使えなくなりマッセなんていうけちな事は存在しない世界である。

 話は横道にそれるが、中古品を購入するときは、そのものの来歴も一緒に購入するのだと思っている。骨董品としての価値は、よほどの珍品でもない限りはないが、それでも「骨の薫り」であると思う。前にどなたが利用されていたかは別にして、そのレンズなりカメラは、時の光をあるいは何十年にもわたって見つめてきたものである。・・・戦争も見ているかもしれない。

 ただ、そのものの歴史が持つ something else を同時に、写真という無限の時間を封じ込めた表現媒体として形を変えて残して行ける、というのも、ウーンッ、ロマンティックな話に思えてくる。

 

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パソコンが壊れた2

 新しい機械が届いた。考えてみたらメモリーに入れておいたすべてと、それまでの努力がすべて消えてしまったことに改めて気づいた。はー。

 HPの更新も一からやり直しとなる。写真をスキャナーで取り込んで移植してと、すべきことはたくさんある。しばらくは退屈しなくてすみそうである。だが、一度した仕事をもう一度やり直すのってかなり辛いはず。

 新しい滝の写真のストックが増えたのでページの構成を少し変えようと思っている。下手な英語を使うのもやめようか。それにしても、である。デジタルな世界って、シビアに管理しておかないと手ひどいダメージを受けるもの。いまさら、ではある。今まで購入したパソコンの数も片手では数えられなくもなった。消耗品である。関係ないがやっぱりデジタルカメラはよしておこうと改めて思った。フィルムで残しておいたほうが安心であり、かつ使いやすい。

 気を取り直してせっせと作業をする。とりあえず新しい機械は気持ちがよい。

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パソコン故障

 利用していたパソコンが壊れてしまった。

 これだって、いつ止まるかわからない機械で書いている。最悪。

 明日、新しいのが来る。壊れるものは壊れる。諦めよう。

 それにしても、あの機械に入っていたデータは、さようなら。

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ガソリン代

 愚痴である。

 ガソリン代が来月からまたあがるそうだ。東北がおもな撮影テリトリーであるが一度ロケに出ると往復800キロは走る。あまりガソリンを食べない自動車を利用しているつもりではあるがやっぱり大変である。

 ラージフォーマットのカメラにしたので、原付バイクで貧乏旅行と言うわけにも行かず、車が頼りの旅がらすである。良い写真を撮ってどんどん稼げばよいのであるがこれがそうもなかなかいかないのは人の世の常である。良い写真。売れる写真、んー。

 前田真三大先生は一日に60カットをノルマとしていたそうである。ラージフォーマットで60カットと言うのは、多分世界中のプロフェショナルを探してもほかにはいないだろうな。撮りすぎである。悔しい限りでもある。大体現像が追いつかない。その昔、中学生のころけっこうな枚数を撮影していたと思う。無論、35ミリでである。記憶にあるのは、大きなビニール袋1つ分の未現像フィルム。引越しのときに全部捨ててしまった。50本前後はあっただろうな。あの思いはもうしたくない。もったいないのもそうだが、自分のその努力をごみにしてしまうような哀しいことはもう出来ない。

 写真だって魂は宿ると思っている。何も森の立派な木やデッカイ石ばかりではあるまい。一枚一枚大事に撮影し、現像し、焼き付ける。これだけ手間をかけていて、スピリットがなかったら、それこそ淋しく哀しいはなしである。シャッターを切るときは、祈るような気持ちで切っているのである。安易にポショポショ押しているわけではない。ラージフォーマットの醍醐味は、そんなところにもあるのだ。

 気を取り直して写真を撮ろう。ガソリン代は気になるが。

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蛇のはなし

 この間のことをチョッと書こうという気になった。

 住んでいる家の向かいのお宅の庭で、なにやら騒いでいた。まんざら知らない家でもないので声をかけた。までは良かったのだが、庭に蛇がいるのだと言う。ご主人は蛇が苦手らしく私に捕ってくれという。えーっ。俺だって山でよく出会うが脂汗がどっとでて、であった後は写真を撮るのもしばらくの間集中できなくなるほど好きでないのを知らんのか。と、心の中でつぶやき、どれどれ。

 門近くの背の高い木にシッカリからみ付きてこでも動かぬ様子。一メートルはあるしましまへび。敵も必死である。シマヘビには毒がないのを知っていいるので、少しは安心したが、素手で触るのはやっぱり気持ちが悪い。で、自分の家に帰って「火箸」のでっかいのをもってもどり、これで頭を丁度出していたのでグット押しつぶす。殺すのは可哀想な気もしたので火箸でつかんだままオッキメのビニル袋を手にかぶせ、胴体をぐいぐい引っ張ったものだ。丁度ゴム輪が伸びるみたいに細くなってビヨーンと伸びる。何回か繰り返すうちに少しずつ木からへがれて来る。それにしてもである。蛇の体って何であんなに冷たいんだろう。ぞっとするほど冷たいのである。頭は相変わらず火箸でグニャっとつぶれたままであり、苦しそうでもあるが、蛇であるからか悲鳴は聞こえなかったな。

 木からへがれた蛇のやつめを、大きなビニール袋へカサリト落とす。やっと開放された頭をグット持ち上げてこちらを威嚇している姿も哀しい。近所に結構な林があるのでそこへお連れして袋からポント落とす。直ぐに逃げていくものと思っていたがなんと、フェンスがあって、其の向こうに落としたのであるが、フェンスの間から頭を5センチばかし突き出してこちらをギロット睨みつけ、舌をチョロチョロ。それからおもむろに頭を引っ込めどこへとも知れずかさこそ去っていったのであった。あのフェンスから突き出した頭のことはその日じゅう結構リアルに浮かんできた。ぞっとする感じとともにである。

 蛇を入れたビニル袋はその家の奥様が持ってきたのだが、こともあろうに手渡しではなく足元に投げ捨ててダッシュで家の中へと消えていったのであった。なんということであろうか。心の中でかなり動揺しているこのジェントルマンを一人残し。まあ、いつもチャーミングやなあと思っていいるご婦人であるから許せるが。

 あの日から、もうけっこうな日時が経つのだが、いまでもあの蛇のフェンスから突き出した頭とあの黒い目は忘れられない。有難うだったのか。コンチクショウ目だったのか。チョッと聞いてみたい気はするんだが、しかし、またあの蛇にあうのは御免こうむる。

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不思議

 テレビを見ていたら中学から高校へかけての時期のはやり歌のセットCDを売っていた。早速買い込んで今聞いている。なんと懐かしい、というかなんというか切なくなってきてしまう。一気に色々思い出されてどんどん切なくなってくる。

 思えば随分無茶なことをしてきた。今もそれが続いてはいるがさすがに息が切れ掛かっている。このタイミングでこんな歌モノを買い込むなどということは誰か知っている人にそう仕向けられているんじゃないかと妙な気がしてくる。昔がよかったなんてことだけは口が裂けても言いたくは無い。今が最高だなんていうことも白々しくて言えるわけも無い。まいったまいったと言いつづけるしか手はもう無いのかも知れず、ほんとに参っている。

 歌モノと言えずインストでも文章をかくとき鳴っていると邪魔で何も書けないのが常なのだが、この聞きなれている古い歌どもは全く自分の思考を邪魔していない。それだけ聞きなれていた、いつも聞いていたのだと今思う。異物で無い音楽。なんかそのことが嬉しく想われても来る。少し前までジャズの他は聞かない時期が長く続いていた。20年ほども続いていた。が、写真に懲りだしてから一気にジャズを聴かなくなったし、下手ながら自分でも演奏してきたのをスッパリ止めてしまった。そんな今日この頃、古い歌を聞く気になることが不思議である。

 不思議といえば「東山魁夷」の美術本を買い込んでみている。自分の好みがすごく近く書かれているようで見入っている。写真でこの世界を表現するにはちと無理があるが、モチーフを単純化して色が付いていようが無かろうが強烈にアピールすることの可能性がすごいと思った。大判カメラで撮影していると絵を描いていることにとても近い気がしてくる。自分は絵がへたくそである。というよりかくのが面倒であるのでほめられる絵をかくことが出来るのか出来ないのか分からないほど手を抜いて描いていた。高校生のころ一度だけ先生に褒めてもらったことがあった。あの時は随分時間をかけて風景を描いた。後にも先にもあのときだけである。そんな自分が写真を撮っている。それも大きなフィルムを使ってである。大きなフィルムは事細かに対象を記録できる。信じられないほど細かにである。細かく写るということはボリュームが出るということである。大きなキャンバスに描くのに多分似ているんではないかと一人合点している。日本画の大家にいまさら共感していることは、大判カメラを使うことの経験抜きでは考えられなかったこと。こともあろうに日本画である。これを不思議といわずして何というか。

 

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Hassel-Time

ハッセルタイムのアドレスを使って、ホームページを作って早一年。ハッセルブラッドをこよなく愛し、使い込んでいく中で、撮った写真の整理とサンプル画像の蓄積を目的に運営をしていた。が、いま、手元にハッセルブラッドは無い。大判カメラを手に入れるために、全て売り払ってしまった。

 ハッセルを使用していたころの写真は少ないが載せてはある。今でもハッセルは欲しいとは思っている。マガジンだけは持ってもいる。しかし、写真を撮る自由度がハッセルブラッドは大判カメラよりも自分にとって低いのである。カメラをセットしてしまうと、はるかに操作性がよいのが大判カメラである。困ったことになった。

 先日列車を利用する機会があった。隣の席のスイスからいらしたご婦人と2時間ほど片言の英語を使って話した。写真の話に及んでカメラのことを伝えるのに、ついつい有名なハッセルブラッドを口にしてしまった。今使っているメインの「タチハラ」では説明がややこしいと咄嗟に判断してのことであった。嘘を言ったわけではないがやや正確性にかけていたと今後悔している。ウッドメイドといったらきっと分かってもらえてさらに話も弾んだことかもしれないと、後悔先に立たずというところ。

 ハッセルを欲しいといったが、高価であるあのカメラをいまどうしても手に入れたいもののリストに載せることは出来ない。ハッセルをこうにゅうする先に、新しいレンズを一本探さないとと思っている。焦点距離270ミリぐらいのワイドレンズ。これがないと、色々支障がある。少し離れた木の実や木の葉、川の流れなど撮影が難しい。

 当分ハッセルタイムのままであるが、マガジンのみのハッセルタイムで行くことになる。かなしいというか、みっともないと言うか、つまりはトホホの話である。

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ハッセルブラッド再考

 春がやってきて、カメラやの店先が妙ににぎわっている。ように見える。大判カメラで残りの人生を生き抜くぞって頑張っていたが、昨日、あの悩ましい遊び道具を発見してしまった。「ハッセルブラッド」、の付属品で、A-16マガジン。

 ハッセルブラッドは、スウェーデン製の古めかしいデザインを持つ、基本的にはカメラの上から覗いて写真を写す道具。これが、自分にとっては、結構楽しく遊べる道具なのである。道具と書いたが、おもちゃである。おもちゃとは元来子供たちが使う道具であるが、大人のおもちゃは一種独特な響きと余韻を残すもの。いろんな意味でですが。

 カメラはいまや被写体に向けて、ボタンを押せば綺麗に写る。果ては撮った画像を直ぐに確認できる。気に入らなければその場で消せる。現像をする手間も暗室にこもる必要も無い。結構ここがつまらなかったりするんだから、道楽人は困ったもの。自ら進んで面倒を背負い込むことが楽しかったりする。

 ハッセルブラッドはこの面倒な道楽にはうってつけのおもちゃである。たぶん、誰に聞いてもそういう気がする。お金を出してまで使おうというのは、これすなわち道楽の域である。A-16は、レアな部品である。ハッセルを使う人たちの中でも、これをメインのマガジンとする人はそう多くは居まい。ここがまた、悩ましいところである。

 そして、時はまさに春である。

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カラーな写真は白黒よりうえか

 青森の奥入瀬渓流で大判写真を撮ってきた。冬と春のちょうど真中ぐらいの季節でフキノトウがわんさと出ていた。オーバーを着ないと寒く、大分寝不足で撮影したものだから冷や汗が出た。

 今回の撮影は白黒のフィルムがメインと決めて出発したはずが、現場ではどうしてかカラーで撮りたくなってしまう。小川の流れや小さな滝のたたずまいを撮影するのだから、白黒の方が余計な色が画面に入ってこなくていいはずなのである。もって行かなかったからカラーが欲しかったのか、基本的にカラーな現場だったのか。次回6月ごろを考えているので、そのときは仕方が無いのでカラーももって出ることとなるだろう。

 大判で撮影をして何が良いか言うと、仕上がったネガなりポジなりを見たときに、そのものズバリが写真として成立するところではなかろうか。もちろん、ネガだと反転させないとポジ画像にはならないが、フィルムがデカイためおおよその予想が立つのである。小さいフィルムだと伸ばしてみないといまいち分からないところもあるものだが、大判はそこが偉いところなのだ。

 ふと、ライカが欲しくなり予約をいれたのだが、今日はもう欲しくなくなっている自分がいる。よく考えるとどんな良いレンズでも、大きなフィルムに焼きついた写真を超える「絵」などあるはずも無いのである。雰囲気と言っても写って何ぼの写真である。そもそも写っていないものをくらべることなど出来はしないということに思い当たった。で、チョッと目先を変えて、この大判カメラにはブローニーフィルムを使うホルダーなるものが存在することに気が付いた。6×7、6×8、6×9と用意されている。つまり、写真を撮るときにピントグラス上でフィルムの大きさ分の「絵」を決めておけば、あの大きなイメージサークルの真中辺だけを使って最高画質の写真が撮れるということなのだ。これは使わない手は無いのである。確かにそれようのカメラを使った方が楽にシャッターを切る準備が出来る。だが、あの大掛かりな大判カメラのほかに、もう一組のカメラを持ち歩くことは結構体力的にむつかしい。ここに、普通のフィルムホルダーのチョッと厚みのあるロールフィルムホルダーの存在価値があるわけである。

 早速、ライカをキャンセルしてロールフィルムホルダーの注文をしてしまった。ライカよりずっと安価であることもうれしい。ここで、本題にもどれる。ロールフィルムホルダーにカラーフィルムを入れれば、非常に機動性があがるのである。カラーフィルムは偉い。使いたいときに使えるカラーフィルムは偉い。大きくないから、現像だって楽に出せる。いいことずくめである。つまり、撮りたいときに白黒、色が見えたらカラーと、撮り分ければよいのである。どちらも大判を用意すると、迷う結果となるわけだからこの方法は実に良い。予算も安くつくし・・・

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北へ向かうといい写真が撮れる

 不思議な思いがある。北へ行くといい写真が撮れる、かもしれない。

 北と言っても津軽海峡を渡るわけではない。渡りたいのだが、時間とおあしのはなし。今回、青森県の奥入瀬へ行くことにしている。新緑の季節にはまだ少し早そうなのだが、誰かがわざと作ったとしか思えない不思議にくねくねした川が、見事に流れているので結構退屈しなくてすむ。それに、今回、意地を張って白黒のフィルムだけを持って出かけるつもりなので、葉っぱが綺麗な緑色でなくとも、まあ良いのである。

 白黒ですべてを撮ろうと言うたびは、結構勇気がいる。綺麗な色をしたものや面白く並んだ色のあちこちを見ると、色の付くフィルムで撮りたくなる。そこをグットこらえて白と黒のフィルムを使う。したがって、撮り方を工夫しないと昔の人がカラーで撮りたかっただろうな風の写真しか出来ない。それではあまりに芸が無いことになるので、白黒でしか表現できないような被写体を探さないといけないこととなる。これが結構骨が折れる。

 欲張りな性格であるので、一度行ったきりでよい写真を撮ろうとする。が、良い写真、満足いく写真をものにすることはこれで案外難しい。人に見せることを意識するわけではない。ただ、自分を満足させることの出来る写真が難しい。写真を撮り回っているうちは非常に満足している。それなのに、家へ帰って、現像して、「絵」にしてみると、次回の課題が見えてくる。つまり、また行かないといけない羽目になるわけだ。一度で決めたいのに、また行く課題をわざわざ探しに行くようなもの。

 北へ行くと、写真を撮ることそれ自体が、自分を満たす。北へ行かないと、満たせない、では無いのだが、やっぱり北へ行きたい。奥入瀬から八甲田へかけての深い山は良い。何が良いか。深い森、にごっても風情のある川、いわくありげな日の光、不思議な感じの風のにおい、自分といったいになれるはずの無い美しい森が、もしかすると一体になれるかも知れないと、錯覚を運んでくれるところが面白いのだ。

 北へ行くと、面白い写真が撮れる。 かも。

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フィルムの現像

 新しい現像タンクの調子はすこぶるよろしい。4×5インチのフィルムを一度に6枚現像できるドイツ製のタンク。JOBOと言うメーカー。途中、何度か中に入れた薬を攪拌しないといけないのだが、薬剤がチョロチョロ外に出てしまうのがいまいち気に入らないところであるがおおむね良好である。現像時間もその加減がわかってきたし、春になると花の写真がどんどん増えるので好都合である。カラーで撮影する方が美しさを簡単に留める事が出来はするが、白黒もこれで意外といけると、大きなフィルムを見ていると思えてくる。

 僕の中では外人の写真家は花を白黒で撮影するものだという、多分間違った印象がある。どうしたものか、白黒のそれは美しい写真をどこかで見たのだろう。外人は花の写真を白黒で撮る。白黒でしか撮らない。と、まではいえないが、強い印象がある。

 だからではないが、白黒で花の写真を撮るのがすきなのだ。カラーでとるとバックの色の処理がなかなか難しいこともある。かのメイプルソープ氏はカラーで撮るときは、バックは真っ白である。と言う印象がある。ストロボで強烈な光を当てて飛ばしてしまうんだろうな。まあ、自分の場合は家の中での撮影より、野外の撮影が好きだったりするので、バックは木の葉っぱや雑木林そのものをぼかして使うことになる。大判カメラの被写界深度の浅さはそんな時ありがたい。

 フィルムの現像から話はそれたが、自分で現像してみていつもドキドキするのは、失敗していることが、現像をすべてタンクの中で行っているので、最後にしかわからないと言うこと。途中で専用の灯りをつけて確認することも出来るのだが、一度やってみて、よくわからなかったので、時間と温度だけ守って、最後のお楽しみと言うことに決めている。今のところ結構うまく言っている。あけてみてぞっとすることも多いのだが、運がいいと言うのか失敗は今のところない。それと、うまく処理できて、フィルムを見るときのわくわくする気持ちは、何度やっても良いものである。最近は、撮影のとき露出を変えて最低2枚は撮影することにしている。そのどちらも、なかなかそれぞれ味わい深かったりすると、撮影のときの悪戦苦闘を思い出して、一人苦笑いをしていたりもするのである。

 写真を撮影して、自分で現像して、今は引き伸ばし機を持っていいないのでスキャナーなどと言う味気ないもので「絵」にしているが、それでもやっぱり面白い。現像所に出すよりよっぽど面白い。

 どんどん撮って、どんどん現像しよう。写真はとても楽しい道楽であった。

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雨が降ってても写真な日

 雨降りの日の写真は、大げさな感じがするので出かけたくはない。が、写真を撮りに行くことの楽しみは雨ごときで奪われたくない。この気持ちの間には、随分色々詰まっている。

 まず、雨が降ると歩いて出かけるか車で出かけるか考える。傘を持っていくか、合羽にするか考える。長靴にするか、登山靴にスパッツにするか、考える。色々考える。あとは、もって行くカメラをどっちにするか考えるのが一番厄介である。実際、現場について、三脚に載せてしまえば、かなりの覚悟は出来る。しかし、それを考えると、体がちじこまってしまうのも本当。さらにしかし、オリンパスを持って出ると、写真を撮らないで帰ってくる場合が多い。が、タチハラを持って出ると、必ず写真を撮って帰る場合が全部。

 僕のタチハラは、蛇腹が皮ではない。雨にぬれても後でカビがはえて来ることはない。しかし、濡らすと形が変に折たたまるようで、なんか嫌だ。それに木だから濡れると狂ってこないものか気にかかる。

 大きな傘を三脚に付けれるようにしてある。風さえなければ結構これが快適な屋根になる。レンズ交換や、フィルム交換だってぜんぜんへっちゃである。が、ひとたび風が吹くと最悪な結果になる。そう、三脚ごと雨だまりに倒れこむことになる。

 雨の日に写真を撮りに行くのは勇気がいる。行きたい気持ちが駆け回りはする。時間だけが延々過ぎていく。

 庭に花を植えよう。雨の日に写真を撮るため。それが良い。畑作業は健康にもよさそうだし、咲いた花を摘み取って家の中で写真を撮る。傘はいらない。蛇腹も濡れない。

 春なんだし、庭に花を植えよう。いろいろな花を。

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写真を撮ること、さらに

 雨模様だったが、近くの森へ行ってきた。4コマ撮影。見下ろす感じの撮影ポジションで、うまくピントを合わせることが出来ず、結構凹んだ。が、追い込まれると色々考えるもので、いつもと反対のことをやってみた。具体的に書くとややこしいことになるので割愛するが、とにかく、知っていることと反対にあおってみた。ら、これがどうでしょう、バッチシピントが合うではありませんか。数学の問題をウンウンうなって考えた後、ビュウワット解けたあの感動のような、平凡な日々ではめったに会えないようなドラマにめぐり会ってしまったような、そんな感じ。以前、ほかの人を撮るとき、見下ろす位置からなかなかピントを合わせられず、結局いい加減にシャッターをきったことがあったが、これで次回からはノープロブレム。

 難しいもんだは、放って置いたほうがこうやって解けることもまたありなんだと、改めて納得。まあ、そのときそのときに解答を出せるのが良いに決まっているが、出せないときの対処方法も、いくつか知っておくことが精神衛生上絶対大事なことであることもこれ事実。逃げること、忘れること、知らん振りすること、ほうっておくこと、ははは、これくらい知っていたら大分良いと思ったりする。

 大判カメラを使い始めてから、いろいろ出来ないことが出てきた。出来ないからといって変に努力するのもかったるいし、やっぱり、問題はほうっておくに限る、と、妙に得心したりする。だれかに教えてもらえればそれもまた良いのだろうが、周りに教えてくれる人がいなかったりしたら、これ自分で何とかするしかないのだ。自分で何とかすると言っても、基礎がない状態で始めたのだから、問題に直面した場合、実際参った事になる。で、今回のように、しばらく忘れていると、うまく解決できることをしばしば経験する。こんなおとなになってから、新しい問題に出会うこと自体結構新鮮だったりもする。

 面白い経験が、たくさん出来た方が、面白い人生に決まっている。大判カメラは、また今日も、新しい問題を見つけさせてくれた。感謝感謝。中国語でシェーシェー。うん?!

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オリンパスのこと

 この間オリンパスのホームページで募集していたのでOM-1についてチョッと書いた。抽選で、OM-1開発者の米谷美久氏のサイン入りパンフレットがもらえると言うのに釣られたのだった。見事パンフを手にし、さらに今月末までになんだか記念品をいただけるということになっているらしい。何を書いたか忘れてしまったが、オリンパスのホームページに掲載されているのを読んで、改めて自分がOM-1を随分好きなんだなあと、自らを額縁に入れて見ているような気がした。話は飛ぶが、自分で書いた作文が人前に出たのはこれが人生で2回目となる。一度目は中学校の読書感想文コンクールだった。文章を書くということにおいて、このPCと言う機械は、書くという行為を簡単にしてくれる。キーをパタパタ打って、変換するとあっという間に文章がかけてしまう。結果、気軽に人前に下手な文章を量産することにもなる。

 思うに、自分で原稿用紙を前に色々頭をひねって書くように一枚一枚仕上げるのがフィルム写真なら、気軽に思いのままパシャパシャ写真を量産するのがデジカメではなかろうか。中身がどうのと言うことではなくて、とにかく記録することが大事なテーマであればデジは非常に役に立つと思っている。まあ、どちらがどうと言うことはない。大判フリークの自分も、結婚式やお葬式の行事写真はすべてデジカメで撮影している。後処理がとても楽だし、他人様のは特に、何年かしてもう一度見ようと言う気にもならないし、そういう注文もないので一時しのぎというほどでも無いにしろ、行事写真はデジが便利だと思っている。子供の運動会ももちろんデジがいい。ズームレンズは便利だし、連続シャッターは、決定的瞬間をしっかり押さえてくれる。ただ、そこで虫が騒ぎ出す。写真はフィルムで撮っておいてこそ、撮影したときの思いや気分が後から思い出せるものだと思うのだ。もちろんデジでもチョッとはそういう気分にもなるだろうが、自分の場合、やっぱりフィルムがいい。保存性の問題も確かにある。デジは電子媒体としての保存になるから機械が故障したりしたら、すべてパーになってしまう。その点フィルムは丈夫で長持ちである。

 写真雑誌はあまり読まないのだが、たまさか読む機会があると、盛んにデジ対フィルムの戦いが繰り広がられているのを見る。うまく使い分ければ問題なかろうものを、まあ予算の関係で両方は持てないと言うこともあるにはある。が、デジは、直ぐ安くなる。チョッと前の機械を買うと素晴らしくよい機械を格安で手に入れることが出来る。実際、今もっているデジは5年前の400万画素モデルで、もちろんオリンパスのデジである。先日5倍に拡大トリミングが必要になり、近くの写真屋さんで、伸ばしていただいたのだが、感心するほど綺麗に出来上がってきた。イベントはデジがいい。場面場面で使い分けが出来ればそれに越したことはないと思う。2種類持っていて、どんどん使えばいいんだ。機械なんだから。使ってあげると、きっとフィンムカメラにしろデジにしろ喜ぶに違いはないのだ。

 次回は、新しく購入した現像タンクについて書こうを思っている。4×5の現像タンク。ドイツ製。便利、安心、だが、チョッと高い。

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正直な気もち

 最近大判の写真機を使っている。大判であるからあまり自由に撮影できない。頑張らないと写真が撮れない。写真を趣味にしている人で、どれほどの人がこのカメラを使っているだろう、また、使ったことがあるだろうか。必ず三脚にセットして、黒い幕をかぶりピントを合わせ、場合によっては「あおり」をして、被写界深度の調整をする。カットフィルムホルダーをセットして光線かぶりをきにしながらシャッターを切る。なんともややこしい限りである。

 これに比べ、いわゆるライカ判のカメラは非常に使いやすい。撮りたいものにカメラを向けて、ピントを合わせ、露出を決めてシャッターを切る。慣れれば瞬きするぐらいの時間で一枚撮影が可能だ。三脚に載せないですむ場合も多い。機材自体も軽い。写真を撮るのはこれでいいじゃないかと正直思う。スキャナーで取り込むぐらいのことなら十分画質だっていい。現像も簡単だ。

 だが、出来た写真をみて、いつも思う。大判はすごいって。画面の隅々までシャープであり、いわゆる解像度がはっきりよいとわかる。レンズのメーカーの差より、選択するフィルムの特性で「絵」が決まる。露出も撮影者の好みで変わる。当然「絵」も変わる。いわゆるカメラの勝手が効かない。すべて撮影するものの判断と決定が支配する世界なのだ。その深みにはまってしまうと、もう抜け出せない。必要以上に細かく写ってしまうことから、当然、ルーペを当ててよく細部まで確認できる。撮影する時気が付かなかった色々なものがよく見える。へーってため息が出ることがしょっちゅうある。写っているものが、もしかすると写真の中で勝手にぺちゃくちゃ喋りだすんじゃないかとまで錯覚することがある。お化けが写っているわけではありませんがね。

 ライカ判で「しゃきしゃき撮る」世界も楽しいが、面倒を買ってまで写真を撮ることの楽しさの先に、さらに、再発見をする不思議と楽しみが待っている大判写真、これはもうやめられないはずです。寒い冬の仕事のあと、家で熱燗をつけて身欠きにしんをかじるあのなんともいえないよい気持ちに非常によく似ていると思うのは、筆者だけだろうか。

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揺れる心

 春になってきた。それはうれしい。桜が咲く。それもうれしい。が、同時に、悩ましい季節でもある。というのも、桜の写真を撮りたくて、毎春あせる気持ちはあるのだが、満足の行く写真を撮る事が出来ていない。どうとってもさまにならないわが桜の写真。秋の萩と春の桜、どちらも苦手な被写体である。

 桜を写真に収めていつも思うのは、まず色。桜色に写らない。というか、自分のイメージにならない。桜と一緒に写っているものが気に入らない。ぜんぜん桜を引き立てていない。今年もきっと悩みに悩んで、枚数を撮るのみで、没にする写真ばっかりの予感がある。だったら撮らなけりゃよいのにと自分で思いはする。するのだが、とらずには居れない切ない思いに駆られてしまう。

 桜は切ないもの。静かに、桜色をした、香りまでも感じてしまうよな、そんな桜を、是非撮りたい。ことしこそだ。

 桜と風。桜と水。ああ、悩ましくて、切なくて、気が狂いそうになってしまう。桜、さくら、SAKURA。桜色の桜。ああ・・・

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友人が旅に出る

 昔から知っている友人が仕事をやめて旅に出るという。行き先はどこかと問わば、そんなものは知らないという。どのぐらいで帰ってくるのかと聞けば、わからないという。まったく、羨ましい限りだ。カメラを持っていくのかとの問いに関してだけははっきりと持ってゆくという。

 さて、自分だったらどこへ行くだろうか。時間と金とタイミングの3拍子がすべて揃ったら、多分、沖縄、ではないだろうか。カメラはもちろんタチハラで、フィルムはTMX、カラーも少しは持っていくか。期間は、得心できる海の写真が撮れるまで。沖縄は初めてではない。が、以前行ったのは10年ほど前になるか。一昔前である。

 アメリカ軍がらみの写真も撮ってみたい。先の大戦の傷跡も、自分なりに撮ってみたい。基地で働く人々も撮ってみたい。と、結構具体的に出てくる。したがって、そこは是非行く計画を立てるべきところなのだ。写真を撮りに行くべきところなのだ。何がないからいけないのではなく、そういうところは何がなくても行く必要があるのだ。と、新しい目的を知ってしまった。さあ大変。

 きっと、友人にこんな話をすると「ほー」と言ったきり、何の返答もないだろう。そして、多分、彼の旅は、そういうのとは異なっているはずなのだ。そしてもっと言うと、自分には彼のような旅はできそうにない、と、はっきり分かってしまう。

 目的のないたびは、側から見ているとカッコよいたびの形であることは間違いない。しかし、そのカッコよいたびは自分には不向きであるから、当分は、カッコよくないたびを続けるしかないと言う結論となる。なんだ、こんな結論を出すために、考え出したのかとまた、自分のかっこ悪さを実感してしまう。なんだろう。             

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撮りたい写真

 撮りたい写真がどうだったのか、時々思い出せないときがある。現像があがって、スキャナーでとるなり、実際に焼いてみるなりして、さて、いったいどう撮りたかったんだろうかって、しばし写真を見ながら考え込んでしまう。元来自分の写真が大好きなほうだから、どうであってもあまり気にすることでもないんだろうが、そんななかでも、はて、と首を傾げてしまうことがあるのだ。そこに写っている写真が、オット思える写真であるときに、なおさらそう感じてしまう。

 写真はとても正直なものであるから、露出やピントの失敗は論外として、撮りたいもの、撮りたかったものから、大分隔たって撮れてしまったはずの写真が、改めて語りかけてくる。自分で撮っておきながら無責任の極みのような気もするけれど、ポラロイドやデジカメではないので、カットが多かったりするとどこで撮ったかは覚えていてもなぜ撮ったかが思い出せない。あるいは、被写体に感動したことの理由がわからなくなってしまう。感動した理由が理解できても、そのことがシャッターを切らせた本当の理由かどうか、自信がなかったりもする。それでも、撮られたものは、主張するのである。まして、サイズの大きなフィルムで撮った写真はである。

 大きなフィルムで撮影していて、あとで撮っておいてよかったと思うことが多いのは、そんなこともあるからではある。まだまだ写真機の使い方が今ひとつ体得できていない現状では、シャッターを切るまでの結構長い時間があるため、見たものが脳裏に焼き付くことになる。撮りたかった写真が、撮った自分に忘れられ、撮られたものが、写真になってからあらたに「なにか」を主張する。不思議な世界なのだが、そこがまたこの大判遊びの新しい魅力でもある。そう、自分に言い聞かせる。

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写真について再び

自分で撮って自分で現像、さらに自分でプリント。

学校の写真部でいたころにはごく当たり前のことだった。だが、今は、現像こそ自分でするが、プリントはプリンター。なんとも簡単ではあるが、暗室作業につき物のドラマがないんです。暗室で作業をもくもくとしていると、結構いろんなことを考える。人生のこと、明日のこと、好きな女の人のこと、色々考え、それがまとまる。写真に写っているわけでもないのだが、いろいろなことが思い出されたりもする。この暗室作業が、今は無い。

暗室は、人を詩人にするはず。独りよがりの詩人ではありますがね。それにしても、と考える。大判写真を楽しむことは、より、厄介を背負い込むことでもあると。すべて全自動で写真が出来る環境もあるはずなのを、わざわざ何から何まで手仕事で仕上げるこの遊びは、ある意味時代に逆行していることでもある。で、逆行することの心地よさというのも、これ、特に感じてしまう自分がいるんです。

写真を楽しむなら、やっぱり自分的には大判遊びが一番なんです。これ、ほんと。

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自転車に乗って

 難しい話を棚上げして

 朝から自転車で撮影に出かけた。背中には暗箱、レンズ3本、フィルムマガジン4枚、被り布などなど。三脚は軽い方を持って出た。4時間ほどの撮影でくたくたに疲れてしまった。行きつけのカメラ屋で一服。帰りにYカメラへ行って、現像、定着用の薬品を仕入れた。

 本日の収穫は、白黒2枚、カラー2枚、白黒だけでやっていくつもりだったが、綺麗な木を見つけてしまい撮影。それと、神社のジャラジャラにぶら下がっている赤や白の帯のいろが、春先の弱い光に綺麗に光っているのをみて、やっぱりカラーも必要だよなあと、独り言。軽い三脚が、風に揺れて困った。自転車で移動するのに思い三脚は厳しいし、どうしようか。

 初めての皿現像を今夜する。現像用にバットは大きすぎるので、100円ショップでタッパをかってきた。500ccのD76、1:1を使ってみるつもり。この間電話した井上先生は、あんまり良くは言っていなかったが氏ご推薦のXトールはYカメラで、3リットル用しかなく、そんなに作っても現像するフィルムがないんだから仕方がない。微粒子どうのといっていたが、35ミリでちゃんと出るんだから、シートだってきっと同じはず。やってみるのみ。

 カラーの撮影で、ビックリするほどの立体感を感じた。変な表現だが、ハッセルを使っていたときにもすごいと思ったものだが、大判カメラの被写界深度は、極端に浅いのだから、ハッセルより立体感を出しやすいことに気が付いた。それに色を載せると、どうなるか。仕上がりが楽しみだ。

 どっぷりつかってしまった大判の世界、いったいどこまで行くのやら。まだまだ大判遊びは深まるのだった。ははは。

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白黒写真

 自分のホームページに載せる写真をカラーから白黒へ変えようと思う。といって、白黒オンリーというわけでもないのだが。

 4×5インチのフィルムを用いた写真を撮るようになってから、ものの見方が変わった気がする。以前は形とか色だったのだが、今はそのものの持っている質感や構成している 物質の陰影とでも言ったらいいのか、時間的経過のうむ在り様を事細かにみてみたいのだ。カメラが動態に対して全くの無力であることにも起因するのだろうが、写真本来の光と影の画面構成に、何かとんでもない意味がもともと備わっているんではないか、それを受け留めることの出来る媒体としての写真が、もしかすると可能なのかもしれないなどと、思ってみたりもしている。

 話は変わるが、私は歴史が苦手である。学校にいたころ日本史という科目があったが、あれはまさに悪夢であった。教科書が睡眠導入剤いがいの何者でもなかったにもかかわらず、教師は相当の時間を掛けて過去の出来事が書いてある、あの赤い本を何度も開くことを強要した。結局、体質的に受け付けない教科として、今になってもその気配を感じただけで本を投げ出してしまう。

 過去を学ぼう。歴史は人知の宝庫だ。エトセトラ。そういえば、カメラメーカーの歴史すら、全く興味の対象になりえない自分がここにいる。手で直接触れないもの、学習しないと手にすることの出来ないものに対し、根気とやる気を持ち合わせていないこの性格が、思えばそのときに形成されたのではないだろうか。

 白黒写真のことを書こうとして、あらぬ方向へ走っていってしまった。大判だからこその白黒写真を求めて、モチーフ探しをしようと思う。自分が持っている時間を考えると、早々遠方へ出かけることは出来ないのだから、この自分の住んでいる町の中で今までとは少し違った「質感の優れているもの」を探して撮影しようと考えている。フィルム現像は自分の手でしたいので、現像タンクからそろえないといけないのだが、それがまた結構楽しかったりする。このあいだ、東京在住の写真家の方へ、どうすればいいのか色々相談してみた。結局、中判以下と同様に、時間現像がベストであるという結論になった。そこで登場するのが、アメリカのB&Hなる会社の通販。日本で書くよりも大分安い値段が並んでいる。英語がチョッと厳しいのだが、ニフティーの翻訳ソフトよりはましなようだから、辞書を引き引き注文することになる。

 カメラメーカーがカメラを作らなくなったり、フィルムメーカーがフィルム作りをやめてしまったりと、いわゆる銀塩環境は、刻一刻変化しているようだが、アメリカやヨーロッパのそれは、わがジャパンとは異なっているように見受けられるのは勘違いだろうか。どうも、わが国の会社は、目先の利益だけが大事なようで、写真の文化度に対する姿勢に、大いに疑問を持っている。チョッと大げさではあるが。

 つづく

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雨が降りそうな陸奥国分寺

午前中の降水確率が50%だったのにもかかわらず、自転車ででかけた。この地に長年住んでいながら、まだ一度も行ったことの無い陸奥国分寺へでかけたのだ。今にも降出しそうな空の下では、得意の影も利用できない。お寺にある様々な物の質感描写に終始。人間のプレッシャーにも全く動じない鳩なんかを撮る。百日紅の立派な木があるのを発見できただけでも行ったかいはあった。

とうとう雨が降出して、家に戻るかどうかチョッと悩んだ挙句、予定どうりいつもお邪魔しているカメラ屋さんへ行くことにした。途中、フジの写真ギャラリーを覗く。営業写真館の写真コンテスト入賞作品展を見た。四つ切から半切ぐらいの写真が展示されていたが、コスト面からだろうか、大判で撮られた写真の少なさに驚く。中には明らかに135で撮影したのもあって、これがまた入賞しているんだから二度ビックリ。写真の出来云々ではなく、画質のことです。デジがはやり、プロの世界も大変なんだろうなって思いもしたが、プロなんだから、はっきりくっきり写っていて当たり前でしょうが。ピントが出ないようなチッチャナフィルムで仕事をしないで欲しい。言い過ぎか。

ぶつぶつ心で言いながら、合羽が行き会う人たちに邪魔にされるのもなんのその、繁華な町を進んでいった。いきつけの写真屋さんはお客がいなくて、助かった。頼んでおいた大判のフィルムホルダーを受け取る。以前、ここから持っていって光線が漏れていたホルダーを返して、その分値引きしていただいた。助かりました。それなのに、「フィルムを一枚駄目にしてしまいましたよって」、チョッと文句も言ってしまったりして。

雨がやむのを待っている間、展示してあったトヨビューをいじりまわす。あおりの練習をしてしまった。やはり、ビューカメラは扱いやすい。もっとも、あんなもの外もって歩けるわけもないので安くても買わない。あの使い勝手はフィールドカメラの比ではなんですがね。重すぎます。

やまない雨のなか、合羽を着て自転車で1時間。下半身がビッショリになってしまった。冬の雨って、最初は雨の当たっている手がとても冷たいのだが、慣れると感じなくなる。これって、危険かもしれないと思いつつも、手袋をつけても仕方がないのでそのままで通す。家に着いたら、結構つらかったりして。

フィルムの現像をしようかとも思ったのだが、気分が乗らず、明日以降に。

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写真を撮るということ

昨日、近所の山へ写真を撮りに行ってきました。雪が3メーターほどもありましたか。

雪の中をスノーシューをはいて歩きながら、2,3枚の写真を撮るのに片道2時間かけてエッチラオッチラ歩くのって、どう考えても酔狂以外の何ものでもないやなって思いました。そして出来た「作品」が人前に出せるものだったらまだ良くて、露出が違っていたり、ぶれていたりしていたらそれまでの苦労って何だったんだって。

中学生のとき写真を撮り始めたんですが、そのころも毎日学校が終わるとカメラ片手に自転車にまたがり町中をあっちこっちと走り回っていました。撮りためたフィルムは大きなゴミ袋一個分あった記憶がありますが、それを現像した記憶はないんです。学校の文化祭でどうしても現像しないといけないときだけ現像して、伸ばしていたように思います。さて何を撮っていたのか。記憶にあるのは、杉林、炭焼き小屋、農作業中の方々、近くの子供たち、川の流れ、雲。これって今とあんまり変わらないんですね。当時は白黒で今はカラーなところだけ違っています。それと掛ける金額が変わっている。

これは僕だけのことかもわかりませんが、子供が珍しいものにレンズを向けて何も考えずどんどん撮るのと大人になってなんだかんだと御託を並べて撮ることの間にそう違いはなくて、結局子供のころの色々な体験がその後の体験を経て少しだけ屈折した「作品」にしているってこと、のような気がします。

すると白黒の写真を撮ることがもしかすると大人になった自分が原点に返るための大事な作業になるのかもしれない、なんて考えています。そのために、引き伸ばし機が必要になります。これって、またまた大分の出費になるんです。4×5が焼ける機械って随分高い。いずれHPでその写真を「人前」に出せると思います。そのときは、そのときの気持ちをここでもう一度確かめましょう。

雪の中を歩いて写真を撮る事から随分外れましたが、子供なりの山歩きがあって、それも今とあんまり変わらない自分がいて、そのころも、何でこんな苦しい思いをして写真を撮るんだって、きっと考えていたんだと思います。こどものころから酔狂。

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久々の失敗

 今日、フィルムが帰ってきました。結果は露出オーバー。近所のため池が氷で覆われていたので、立ち木をアクセントに4コマ撮りました。逆光で、氷の面からも反射があり、結構難しい場面でしたが、やっぱり失敗でした。こういうときはフィルムの箱に書いてある露出が結構当たっていたりするんですが、露出計の学習のつもりで測光した値で撮影しました。結構凹んでいます。次回、箱に書いてある露出を参考に、もう一度測光してみます。

  大判写真の楽しみは、写りこむディテールにあります。氷を日に翳した時に出来るプリズム様の文様や、複雑な形が見たような雰囲気で撮影できるところが素晴らしい。そういう写真を早くコンスタントに撮れるようになりたいものです。春は花の季節です。去年はハッセルで花を撮っていて、寄り切れない悔しさがありましたが、今年はそんな理由で作品を作れなかったなんてことはいえません。なにせ等倍までは寄れるんですから。もちろん露出倍数というやつを計算に入れないと美しくは撮れないですが、マクロレンズいらずのところも、大判の良いところです。

 とにもかくにも、露出は結構厄介です。場数を踏むことよりほか解決策のないこともまた事実のようですので、機会を見つけて、今回失敗したロケーションに再トライします。

 そういえば、写真を撮っていたとき、池全体の氷がドーンという音とともにぎしぎし軋むのを聞きました。最初は鉄砲の音だと思ってビックリしていたんですが、どこかでそういうのを読んだことがあったのを思い出して、チョッと感動しました。氷が解けるときの音なんですね。今年の冬は、多分暖冬ではなかったと思うんですが、春の感じは格段に早くやってきているようです。去年はもっとゆっくりだったと思うんですが。

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写真のこと

 はじめまして。今日からここに色々書きます。写真のことが中心になると思います。よろしくお願いします。

 このごろ、ビッグフォーマットの写真を撮っています。同じ写真を撮るのに、わざわざ面倒な操作を必要とするアン箱カメラを使うことって、チョッと前なら考えられないことでした。というのも、某スエーデン製のカメラで満足していたからなんですが、ここに来て、なぜか急にもっと大きなフィルムで写真を撮りたくなったんです。色々な知識があるわけでもなかったので、とりあえず、行きつけのカメラ屋さんで手ごろなのを購入、レンズも広角と少しだけ望遠の2本だけではじめてみたんです。これがなかなか一筋縄ではいかず、以前使っていたカメラになれるのにも随分フィルムを駄目にしたんですが、そのとき同様、数は少ないですが、ゴミ箱行きが何枚も出てしまっています。露出を間違えたり、2回同じフィルムで撮影してみたり、撮影してないのに現像に出してしまったりと、ありとあらゆることをしています。40シートに手の届くあたりになって、やっと何とか手順でミスをすることがなくなりました。とは言ってもゴミ箱行きが無くなった訳ではありませんが。

 今冬ですので、雪景色を随分撮っています。機材がそれなりにでかいので35ミリカメラと一緒に大き目のザックに入れてもって歩いています。山の斜面を登るのには、だいぶ厳しいものも感じますが、まあ、なんとかなっています。今日は、近くの山へ午前中だけ撮影に行ってきました。雪の中にうずまっている大きな岩と、風が作った雪の不思議な造形物を撮ってきました。大判のいいところは、そのビッグフォーマットゆえのキメの細かいディテールにあります。35ミリ判だと見逃すような些細な部分に、目を見張るような美しさを見出すことがあります。大判ならではの写真の出来上がりです。まあ、35ミリ判をいつも携帯しているのは、撮りたいと思うものがそれほど質感を残さないでいいと判断した対象を撮影するためですが、自分なりにうまく使い分けしているなあと、思ってはいるんですが、モチーフにチョッと失礼なような・・・。

 今日はこの辺で。また続きは書きます。

 

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