川の流れ 昨日の撮影

 昨日撮った写真である。

まいどまいど訪れる家からそう遠くない山の中である。実際今まで何度訪れたか分からない。_img068標高は1200メートル程であるが、懐は深い。
 

この写真はいつも使っている現像薬とはことなる新しい薬品による。
現像時間が以前のより短くてすむ。リキッドタイプであるため溶解後すぐでも使える。値段も少し安い。いいことばかりである。が、一度に大量に作らないといけないので、保存する瓶が大変である。  

しばらくはこの薬品で行く。まあ、環境のことに配慮するんだったら、Xトールというのもあるんだが・・・

大判で撮る撮影そのものが楽しいので、結局、フィルムはそれに見合う大きさを選ばざるを得ない。いちどフォルダーを利用して、ブローニーフィルムで間に合わそうと思ったものであるが、撮っているうちに欲求不満に陥り、精神衛生上このましくないなあということで大きなフィルムに戻ってしまった。

車もそうであろうが、一度大きな車に乗り付けてしまうと小さい車に乗るとどうも疲れるような気がする。気のせいなのだが、疲れるのである?

知り合いからカラーで撮るように勧められているが、もうすこし白黒の目を養ってから、と思ってもいる。ズーっと白黒のままかもしれないが。                                        

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T-MAXRSであること

フィルムを自分で現像している。

今日はじめての現像剤を使ってみた。コダックのT-MAXRSである。前回までの現像は、やはりコダックのD-76原液現像。きょうのは、1:1の希釈現像指定の珍しい薬。

メーカー指定の現像時間は8分である。温度は20度。今使っている引き伸ばし機が集散光式というやつなので、これまたメーカー指定の、90%に時間を短縮。

なかなかよい結果となった。さすがはフィルムとおんなじ名前を使っていることはある。この現像薬を変えるというのは結構勇気の居ることである。メクラ現像(差別用語?)であるので、タンクの蓋を取るまでは結果が分からない。完璧暗室がないので、この方法をとるしかない現実。

結果がよければ全てよしである。しばらくはこの薬をつかおう。メーカーがいつまで作ってくれるかわからないが・・・

今日は、午前中、久しぶりに近所の山へ写真を撮りに出かけた。三月ぶりぐらいではなかろうか。方々へいっていたので、マイフィールドから足が遠のいてしまった。

やっぱり、慣れているところはよい。何がどこにあるかよく分かっているので、同じロケーションを探すにも楽である。ただ、ここは、スケールがあまり大きくはない。ちょっと残念ではある。

明日、今夜現像したフィルムをアップできると思う。ネットで見たんじゃ、粒子がどうの仕上がりがどうのというのは無理ではあるが、山の雰囲気は分かると思う。

明日の心。ん?

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タチハラフィルスタンド45

Tachia111 タチハラフィルスタンド。

この4×5インチの大判カメラは木で出来ている。

特にこのカメラがどうと言うのではない。

このカメラを大きめの三脚に取り付け街や村や花を撮っている。

その雰囲気が大好きである。
撮った後は自分で現像、プリントが原則である

写真の昔からある楽しみ方である。

よく画質重視なんですねえと、ほかの方から言われる。こちらは、あいまいに返事をしている。

このカメラを使うのは、画質を重視しているわけではない。もちろん、結果として画質そのものの幅広さといったものを楽しむわけである。が、その前に写真を撮る雰囲気を楽しみたいのである。大きい画面で撮りたいものを見つめることが出来る。ピントを合わせるために虫眼鏡を小さくしたようなピントルーペというので隅々まで確認する。手間である。

そこがよいのである。昨今流行のデジタルカメラを否定するものではない。仕事では使っているし、使い方も堂に入ったものであると思っている。だが、仕事を離れた、アマチュアの楽しみは、好きなように、勝手に、思う存分、我儘でありたい。

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アポジンマー180mmf5.6

 どの時代のものであろうか、詳しくは知らないがシュナイダーというメーカーが作ったレンズである。大判カメラのために設計されているので一般の方で知っている方はそう多くはあるまい。

 現在もメーカーは作り続けているが、値段があまりに高くてとても手は出せない。行きつけのカメラ屋で、このレンズは今使っている日本製より「よい」と熱心に言うものだから、別にわたしは国粋主義では全くないが、ちょっとムッとしてしまった。そもそも4インチ×5インチのフィルムを使うカメラのこととて、レンズが描く微妙な違いが、好き好きは分かれるところであろうが、「よい」か「わるい」というそのものの価値判断に及ぶはずはないのである、とまあ信じている。

 そこでである。自分の使っているレンズとアポジンマーを、撮り比べさせていただいた。まあ、焦点距離が異なっているので、多少の雰囲気の違いはあるが、「写り」に関しては並べてみれば分かるというもの。幸い、フジフィルムのフォトラマのアダプター(いわゆるポラロイドの日本版)を持っているので、すぐに結果を比べられる。

Img052_r1 この二枚の写真を見てその差を見分けられる方がどのぐらい居られるだろうか。どちらがどうだということを申し上げることは差し控えるが、露出は全く同じで2分の1秒で、絞りは8である。左がフジの150ミリ、右がアポジンマーの180ミリ、焦点距離が異なっているので多少写りかたに違いはあるが。値段は中古市場でも3倍高いのがアポジンマーである。

 この写真を見せて、来たお客さんに感想を伺ったところ、「互角」との意見が全部であった。無論、アポが特段雰囲気のよい画像を提供してくれるんだったら、即買いということにもなったであろうが、これでは高いお金を払う価値は全くないと思ってしまった。あっ、どちらがどうとゆっているのと同じではないか、はは。

 まあ、こんな比較をして楽しむのも、豊富な種類を持つ大判カメラのレンズの楽しみ方でもある。各国、写真が発明されたときからのレンズを全て共通で使用できるのはこの手のカメラのみであろう。ややこしい変換アダプターや、ほかのを付けることで露出計が使えなくなりマッセなんていうけちな事は存在しない世界である。

 話は横道にそれるが、中古品を購入するときは、そのものの来歴も一緒に購入するのだと思っている。骨董品としての価値は、よほどの珍品でもない限りはないが、それでも「骨の薫り」であると思う。前にどなたが利用されていたかは別にして、そのレンズなりカメラは、時の光をあるいは何十年にもわたって見つめてきたものである。・・・戦争も見ているかもしれない。

 ただ、そのものの歴史が持つ something else を同時に、写真という無限の時間を封じ込めた表現媒体として形を変えて残して行ける、というのも、ウーンッ、ロマンティックな話に思えてくる。

 

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道具を考える

 以前にも道具について書いた。最近重い道具を使って良い思いと悪い思いの両方を経験することに。

 道具とは人の生活を助けてくれるありがたいもの。他人様が良かれと思って世に送り出した自分に便利な物。いろいろ表現はあるがつまりは自分で工夫して作り出したものでない限り、他人が作った他人のための最大公約数的生活または生産用具。

 愚にもつかない考察はこの辺までとして、今回の道具は『三脚』。

 車の屋根に自分が登って写真を撮ることのかわりに、脚立を立ててカメラをセットできるほど背の高いそれ。重量約7キロ、縮長約1メーターのそれは、道具としての存在価値は最高の部類である。少々の風にはブレず、大型であるゆえどんな撮影ポジションも自由に選べる。構図を調整するのに可動する部分は精密そのもの、と、言うことはない。が、たとえば、急な坂道を延々と数キロ歩かねばならないロケ地では、非常な苦行を強いられる邪魔者以外の何者でもない。

 この三脚のカタログには、スタジオ等で使えと書いてある。文脈からそれ以外では使うなとも読み取れるほど、素っ気無く書いてある。しかし、平坦なところでの撮影に一度利用したのであるが、然程運搬も苦にならなかった。それどころか、非常に優れた使用感が快かったのである。その記憶が、とんでもない事態を引き起こそうとは。

 ところは山形、滑川大滝。急な登坂を連続で30分、目の周りがだんだん翳んでゆくのがわかった。休み休み、ゆっくりゆっくり登る。このへんのことは、先だってのブログに詳しいが、冷静になって考える今、何だってあんなものを担いでいったのか、理解に苦しむ。もう一個の軽い三脚が用意してあったのである。もっとも、これはいわゆるライカ判用の優れた代物。けっしてビッグフォーマットのカメラには適すものではない。だが、使えないことはないのである。

 今日、大型三脚と同じメーカーの中型三脚を新たに注文した。当日車中に置き去りにしたほんとは持っていけばよかった三脚を下取りに出して、である。これで3キロ弱は軽量化できる。山道の3キロは担いだものにしかわからないだろうな。

 道具の話である。備わった特徴を十分に利用できて、初めてその真価が分かるというもの。それ以上でも以下でもないのが道具である。ありようを正しく判断して、状況をシビアに見極めてこそ調和が生まれるはず。思い込みや、勘違い、まして人の意見、見てくれでややもするとその存在すら危うくするような使い方は、道具に対し失礼でもあり、さらに使う人までも危うい状況へ導いて行ってしまう、それが道具である。

 付言すれば、限界ぎりぎりの使用に耐える道具についての感想と多少の考察。

 さらに、反省と自責のややこしい記述。文章も道具、か。

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滑川大滝

 パソコンが壊れても写真は撮れる。米沢近くの滑川大滝。

 高速道路を福島飯坂で下り、国道13号線を米沢方面へ。東栗子トンネルを抜けて、すぐの標識を左折する。細い山道をどんどこ走る。対向車がくるとけっこう厳しい。めげずに30分ほど走るともうそこは滑川駅と滑川温泉の分かれ道。滑川温泉へ向かって10分、目指す大滝はここから歩いて20分と書いてある。が、駐車場がない。えーどうしよう。温泉の駐車場には勝手に止めるなと書いてある。しかたがないのでフロントへ言って頼んでみる。500円だと。おまけに駐車券なんか用意してないじゃないか。

 ちょっとムッとするが抑えて抑えて、ここはよその土地である。さあ、あのつり橋を超えて登坂である。長靴に履き替え、20キロほどの荷物を担いでえっこらえっこら登る。さすがに途中で目が回りそうになる。三脚が重すぎである。持ってきちゃったんだからシャーナイわけで、我慢して登る。汗がどんどん出てくる。水筒なんて持ってきてないし、先は見えないし、でも20分で滝のところへ行けるってあったし、頑張ろう。

 行けども行けども滝の音なんか聞こえてこない。普通あと5分な所では聞こえてきて、気持ちがまずは涼しくなるんだが、ここは後5分の看板のところでも蝉の声ぐらいしか聞こえない。おかしい。登りに登って、30分。山の尾根にたどり着いた。遥かかなたに滝が見えるではないか。滝見台と書かれた看板。ほー、ここから見ろってか。見たところ直線で1キロはある。滝の近くまで行けるらしい地図はあるが、今登ってきたぐらい下らないといけないらしい。それにこの辺は熊五郎がいそうである。やーめた。で、ここで例の大型三脚をとりだし、望遠レンズをつけて写真を撮る。こんなところまできて、望遠レンズとはまいった。

 滝はまあ大きいほうで、見上げる位置からだったら結構迫力がありそうである。が、暑いし怖いしで、やめやめ。4カットほど撮影して、今来た同じ道を戻る。下りは足場があまりよくはないが、快適快適。足腰の弱り具合が悲しい。登りはあんなにきつかったのになー。

 上り口で年配のご婦人方に出会う。これから登るそうな。時間を聞かれて30分と答えた。一番元気な方の足元は、宿屋の突っかけサンダルであった。一応、靴になさったほうが良いのでは、と申し上げはしたが、大丈夫だいじょぶだと。多分、帰るときには足を引きずるだろうなあと、まあ、言ったのだからあとは知らないっと。

 なんとも消化しきれない思いを胸に、帰路についたのであった。もう一度行く気になるかどうか、今はまだわからないが、多分これで良いことにするだろうな。なんでも、紅葉の時期にはすばらしい眺めであるらしい。太古からあるがままの森であるから紅葉は確かにすごかろう。しかし、こっちは白黒専門だし。ほほほ。くたびれた。

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当たるも八卦

 ガッカリな日々が続いている。写真にはカメラとフィルムが必要であるが、まあ、そのほかにも色々難儀な使い方を要求される付属品がある。中で一番難しいのが露出計ではなかろうかと思っている。

 最近、けっこう露出をはずす。白黒現像を自分でやっていることも品質にばらつきが出る要因ではあるが、今までを振るかえると、定期的にこの穴に落ち込んでしまう。露出が間違っていると、早い話が写真にならない。真っ黒か真っ白か、見てホーと思えない。この穴に落ち込むとけっこう抜けるのに苦労することも知っている。

 季節も良いのでたくさん撮ることは撮るが、現像が上がってくるまで、そうとうドキドキものなのである。上手くいくもの、使えないもの、これが調子の良いときはあんまりばらつかない。だが、今は上手くいくものが極端に少ない。あーあ。

 こういうときは、たくさん撮るしかないのである。どんどんとって、どんどん変な露出の写真を量産するしかないのである。これをしないといつまでも当たり前の写真を撮ることが出来ないのである。苦しい話である。

 写真を嫌いになったことはない。念のため。

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明日は雨

 東北地方は明日雨になるらしい。最近雨や風や霧の写真が好きで、台風は論外として所謂お天気でないほうがわくわくする。で、明日の新潟行きを家内へ告げると、なんと一蹴されてしまった。お盆ぐらいは私の好きなところへ連れて行けと。ははーん、てなわけで明日は岩手県の竜泉道ということになってしまった。あーあ。岩手も明日は雨だぜー。洞穴の中だから関係ないんだって。

 新潟は月曜日か。フィルムの性能低下を危ぶみつつも行けたら行こう。雨の日の写真は青っぽくなるが、フィルターを使わないことが多い。せっかく大枚をはたいてシートタイプのフィルターを買ったのに、使わないんだな、これが。リバーサルはこの色温度の問題がいつもあるからややこしい。言っても仕方ないか。

 こまごま後ろ向きに考え出すとデジタルが良いのだが、写真を撮ったという感動が感じられないからやっぱり考えれない。画質の良いビデオカメラのほうがましなような気もしてくる。同じ理由で、P社あたりのAE中判にも触手が動かないんだろうな。

 ときは簡単に成功を手にすることを好む傾向にあると思っている。それはそれでスピーディーでなかなか宜しいのだが、ゆっくりじっくり物を作ることがどんどん忘れ去られていくようで哀しい。写真を撮るとき、そこにあるものや人や風景は、何十年もかかってそこにそうして存在していることだってあるんだ。処理スピードの速いデジタルに、その存在感を表現することなんて可能なんだろうか。「質感」といえば聞こえも良いし、スマートであるが、もっとなまなましい、存在そのものの根源と、存在したことで消えていったものへの怨念みたいなものをフィルムは写し取ってくれていると思っている。独り言である。

 さあ、気を取り直してあしたは家族サービスに徹しよう。仕方ないもん。

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盆休み

 写真を撮るのにまとまった時間の取れるのが嬉しい。

 今回は新潟から山形県境あたりの撮影に出かけようかと思っている。前田真三大先生もこの辺りは大分得意としていたらしい。良い風景に巡り会えるかもしれない。もちろん苦手なカラーフィルムで撮影するつもり。期限切れギリギリのフィルムを10本譲ってもらったのが、とうとう待ったなしの時日になってしまっている。もったいないももったいないが、カラーを撮りたくなったのも本当のところ。

 白黒で写真を撮ることに慣れてしまうと、けっこうこのカラーで撮るというのは抵抗がある。似ているようで似ていないのである。トーンのみで構成される被写体を探すことに慣れているので、それに色が加わってくることで、もうワンステップ考えさせられるのである。頭を使うのは良いことなのであるが、これがどうしてなかなかすばやく切り替わらないのである。したがって、乱撮りである。フィルムはたくさんあるんだから、たくさん撮ればよい。下手なテッポも数打てばきっとあたるはず。宝くじよりは確かだろうと思っている。

 もう少しで大好きな秋である。雪が降る季節も良いのであるが、やっぱり雪が降ってくるまでのけっこう長い季節は、色々工夫できるのが良いと思う。元気がなくなった花、だんだん高くなる空、入道雲よりは力をなくしたように見える雲、澄んでくる空気などなど、夏から秋へ向かう時期は、風景が少しずつ、しかし目に見えて変化するのが楽しい。

 ご先祖を参る人々の様子などを、その風景と合わせて写真にすることが楽しみだったりもする。45のカメラで6×9センチのホルダーを使うと、400ミリレンズがたいした望遠レンズに変身する。大判カメラで望遠撮影をすることって、あまり日常的ではないのであるが、そこにけっこう新鮮さを覚えてしまう。山間の風景は程よくかすむところもよい。

 目いっぱい写真を撮ろう。カラーで撮れば後の処理は写真屋さんである。そこのとろもこの場合気が楽なところである。あと2日で盆休み突入である。

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三脚再考

 最近使い出したスリックのザプロフェショナル4nは、自重が7キロ近くある大型の三脚である。とにかく、重い。無論それを承知で使用しているのであるから、重いからどうのと言うことをここで書くわけではない。

 大きなフィルムを使用するカメラは、カメラ自体がチョッとでも動くと、へんてこりんな写真が写されることになる。カメラブレは、絶対いけないのである。そこで登場、今回の三脚。確かに重い。が、カメラをセットした後の安心感は、特別である。信頼できるのである。さらに、長い足を持っている。足に刻みがついている。これは、非常にありがたいのである。

 気温35度の霊山神社、見ては非常に涼やかである。が、そこへいたる険しい石段は否応なく体力を消耗させてくれる。昨日の熊野大社とは違い、ここは美しい大屋根が、鎮座しているではないか。早速、カメラを取り出しセットする。誰もいなさそうであったが、御籤売り場に誰かいる。声をかけ、撮影の許可をもらう。これは大事なことである。ここは神社、神聖なところ。自分は、そういうのを大事にするたちである。パンパンと本殿に向かい拍手を打つ。これで撮影に集中できるというもの。気持ちは清々しているが、体は汗だくなのである。ピントを繰るとき、黒い分厚い布をかぶる。これが追い討ちをかけてくる。噴出す汗の量は、最高潮である。目に汗が入り、とても痛い。そのとき気がついた。写真はスポーツであった。いま、一人夏合宿中なのであった。へとへとになる。

 さらにやっちまったあの情けないミス。シャッターを閉じないまま、フィルムの遮光板を抜き去る。久しぶりの哀しいミス。これもひとえにこの暑さと、黒い布っ切れのやつのせいである。きょうは、何の手ごたえもなく、ただただ暑い修行を終えた安堵感だけで、家路に着いた。まあ、こんな日もあるさ。ははは。

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熊野大社

 暑い山形へ朝早く出かけた。お目当ては熊野大社。南陽市の北のはずれにあるはず。

 看板がでていたが、途中見失う。行き過ぎてもどること5分。あったあった、大きな鳥居が鎮座ましましてある。その奥に見えるこんもりした社の森。おお、これはこれは、立派な神社である。たくさんの参拝の方々がお参りしたはずの磨り減った石段を登る。見上げて、嫌な予感。あっ、大屋根にブルーシートがかかっている。もしかして、改修中とか?であった。最近こういうのが多い。普段の行いの悪さか。

 藁葺の立派な屋根。さぞ良い眺めであったろうに、前半分が無残に剥ぎ取られて、廃屋のような雰囲気すらある。見渡すと神社なのに、鐘楼があり、まずは一枚。古そうなその鐘は、丁度帰るときにゴーンと寂しげな音を立ててなっていた。本殿の回りに、たくさんの社があり、いろいろなところから遷されている。中には菅原道真公をお祀りしてあるのもあった。自分は家内の関係で、今のところキリストさんを拝んでいる。が、今日から、ちゃんとどこの神社でも拍手を打とうと決めた。このほうが気持ちが良い。このあいだ羽黒山へ行ったときもそのまま素通りして、なんとなく嫌なものが残っていたんだ。今日は大分スッキリした。八百万の神様を子供のころから拝んできた自分が、突然キリストさんだけ拝めって言われてもいまいちしっくりするものじゃない。気持ちの問題である。難しくいうと偶像崇拝というなんとも味気ない言葉になるんだが、うーん、これからは、カッコだけは偶像を拝むことになっちゃうのよん。

 このブログを身内が読まないようにと願をかけて、しゃんしゃんと。おっといけねえ。

 話を元に戻すと、一回りして神主さんにもちゃんと挨拶をして、境内を下がるとき、いちど頭を深深さげてっと、これでよし。駐車場へもどって今一度振り返ると、ものすごく大きな銀杏が立っている。これが色ずくころもう一度訪れよう。そのころにはあの大屋根も修繕が終わっていることだろう。

 帰りにチョッと足を伸ばして、朝日連邦が見えないか試したら、今日はあいにく霞が濃い。霞って春にかかるものだっけ。いずれにしても山がはっきり見えない。ユーターンして家に戻った。途中、色々物色したが、あまり収穫はなく、朝早かったこともあって目を擦りながら我慢して運転した。4時半に家を出て、12時には戻ったんだから、260キロを撮影込みで7時間半の行程であった。今夜は現像して、部屋が暑くなかったら(ありえないが)焼付けもしようかと思っている。

 

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八百万って

 あるところで熊野信仰を写真に撮りたいと書いたら、それは無謀だと書かれた。会話のキャッチボール(古いか)が出来ていない。信仰を写真に撮るというのは、非常に抽象的に過ぎた表現ではある、と、反省はした。は、したが、まがまがしい雰囲気を写真に撮りたいということを書いたつもりであったのに、お体お気をつけくださいとも書かれた。

 知らない同士がパソコンで会話をするのってややこしいし、誤解を招いてしまうことが多いように思う。こちらの表現が独りよがりであることは認める。が、相手もそうであるらしい場合、収拾はつかない。それだけならよいが、だんだん無理をして続けているうちに多分言い合いになって、やがては気まずいさよならになってしまう。そうなっては一生2人の関係はだめであろうな。多分会うことはないのでそれでも良いかもしれないが。

 熊野の信仰を写真に撮ると言うことを重ねて一人よがりになることを恐れず書くことにする。別に熊野の信仰でなくとも良いのかもしれないが、人間なにかカッコをつけないとやってられないと思っている。熊野の信仰というと、まがまがしさを感じるのは自分だけかもしれないが、渡海上人の話など聞けば、やっぱりまがまがしいと思ってしまう。出入り口をすっかり閉ざしてしまった30日分の食料を積んだ船で海に漕ぎ出したら、行く末は誰にも分かろうもの。極楽浄土に着く前に沈没が待っている。無論それが極楽浄土の入り口であるらしいが、考えただけで、ゾーっとするはなしである。そんなのがこの熊野信仰にはついて回ると言うのが強い印象なのである。実のところ、近くの博物館でこの熊野信仰に関係するいろいろな「物」を集めたのを見てきたばかりである。見ているうちに気持ちが悪くなってしまった。だいたい直ぐ船酔いする自分には全く無理でもあるし。

 つらつら思うに、信仰とは人の願い苦しみ悲しみ喜び恨み辛みの寄せ集めみたいな物かもしれない。だとすれば、生々しいのも当たり前で、煩悩の集大成と言うことだって出来るかもしれない。 その雰囲気を写真にするなんていうのは、物好きであるとともに、かなり不謹慎かもしれない、と思えてきた。だが、神々の万物におわすこの国は、そういう雰囲気が似合う国であると言うのも同時に思われてくる。とすれば、別に熊野でなくてもその雰囲気を写せるではないか。が、やっぱり「熊野信仰」って、私の中ではカッコいいんだな。

 それはそうだし、それをどう撮るか、なんてのも分かってやしない。撮りたいと思うものを撮るしかない。それが、独りよがりといわれようが止めてくれるなオッカサン、撮るしかないからシャッターを切る。なんだか言い訳めいてしまったが、「いいわけ」である。ついでに芸術は常に孤独で排他的なところがカッコいいんだなんて思っているところも確かにあるな。

 八百万万歳である。まだ見ぬ出雲や熊野に思いをはせて、とりあえず手近かな出羽三山を撮りに行こう。

 

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暗室作業

 一ヶ月ぶりぐらいの暗室作業である。明るいうちに薬品を溶解しておいたのを希釈して溶液とする。今日は気温が低いので調整が楽である。エアコンも換気扇もない普通の部屋で作業をしているので自然に左右される。家の中なのにである。

 土曜日に撮影してきた羽黒山の写真を伸ばす。一枚気に入ったのがあった以外は、ウーン何枚か伸ばしたが没にしよう。四つ切印画紙は高いのでもったいないが、気に入らない作品を壊してしまう陶工に等しい。なんちゃって。

 家での作業は一時間に決めているので四つ切を伸ばすと4枚が限度である。試し焼きをして水洗いまでして調子を確認しないと上手くいかない。乾燥するとより濃くなるので乾燥した紙で調子を合わせるのが良いのだが、そんな手間をかけていると夜が明けてしまう。勘で作業することに。いくら気温が低いと言ってもだんだん室温が上昇してくる。閉め切ってさらに暗幕を引いている。結構息苦しくなる。部屋の外では猫がガリガリ戸を引っかいて中に入れろとうるさい。だが、入れようものなら薬剤をひっくり返すのは必至、部屋中酢酸のにおいにされてしまう。いつもはかわいい猫であるが、このときは別。

 最近はスキャナーで取り込んだ写真で満足することになれてしまって、こうしてほんとうの写真と向きあうと気が引き締まる。なんだか芸術的な気分?になる。デジが嘘の写真とは言わないが、やっぱり写真はこうして印画紙に実際引き伸ばすことで本来の美しさや迫力を再現できるのではなかろうか。勘違いだろうか。

 中の一枚が、信州で撮影してきた前山寺の三重塔を撮ったもの。スキャナのほうがつぶれないで細部まで見える。今のところ、機械の方が腕が上と言うこと。微調整をくりかえせばより以上の写真は作れる予感はある。45が帰ってきたのであるから、伸ばしもどんどんやっていこう。そうそう、フィルムのことであるが、コダックからフジに変えることにした。この間買ったのがまだ一箱あるのでなくなったらではあるが。一度撮影に出ると10枚は撮るから5回で空っぽになる計算。現像薬をフジにしたのでフィルムも代える気になったのである。まあ、どっちでも良かったと言えばそれまでではあるが。つまりは、どっちもちゃんと写るということ。

 来週はこの間よいと感じたロケ地にまた行こう。山形の山の中である。どっこい山の中なのである。熊もいるはずの。

 

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久しぶりのロケハン

 雨が降っていたが天気予報は良い感じであったので山形へ。

 仙台の家を9時に出発、迷ったが高速道路で山形北インターへ。国道13号線を北へ向かい、国道47号線へ。この間、山形市、天童市、東根市、村山市、尾花沢市、新庄市を経由、47号線で戸沢村を通って目的地、羽黒山へ。重文の五重塔を見たくて出かけたのであるが、出羽神社へ車を着けたはいいがお目当ての五重塔は2700段あるという石段を下っていかないと駄目らしい。結構おき楽な気持ちで出発。雨と言うか霧というか服がビショビショになってしまい、肩には修理が終わってきたカメラと交換レンズ、わが国最重量級三脚と、20キロ程の荷物をぶら下げている。石段は登り用に作られているらしく、下りはものすごく神経を使う。濡れているのでうっかりすると足を滑らせて下まで転がり落ちてしまいそうである。途中良いロケーションがあり何枚か撮影する。霧があるので露出が難しい。40分ほどかかって、やっと目指す五重塔へ。頑張った甲斐があった。立派なその塔は、古い建築物を色々見だしてから、最高の部類に入る美しい姿であった。

 ここで、用意してあったフィルム10カット分を全て使い果たし、迎えに来ていた家内と合流。けっこう大変であった。こんなことならはじめから五重塔近くの駐車場からアプローチするべきであった。知らないこととは言え、簡単に考えて長い石段を下った自分が哀しい。体力の限界付近まで使って写真を撮ると、作業終了とともにとんでもない疲労感が襲ってくる。歳を感じる瞬間である。

 この五重塔は是非今年雪が降出したころもう一度撮影に出かけてみたい。周囲が杉の木ばかりなので、紅葉との組み合わせは出来なさそうではあるが、雪の白さと建物の700年ほども経過した木の色の組み合わせは美しいに決まっている。それと、観光客の数もずっと少なかろう。こういう有名観光地はなんといっても人が多い。大型バスでどっとやって来る。変わりばんこに写真を撮りあうので果てしなく時間がかかる。早朝と冬の組み合わせがベストなところであろう。

 修験者の聖地としての静けさを写真に撮りたいものである。山形は家内の出身地であるのにいままであまり撮影してこなかった。なんとなく苦手な風土に感じていたのであるが、これからは集中してみようかとも思っている。山も海も季節と時間を選べば、なかなか迫力のある「絵」を作れそうに思う。

 それにしても自然が厳しい。何でこんなに厳しくなっているのだろう。文句を言ってもどうしようもないが今日のようなことになるとやっぱりため息が出てしまう。まあ、写真をそこまでして撮る必要性もなかろうものであるが、家に帰って早速現像した45のフィルムは、いまいち出来がよくはなかったものの今日の努力の成果として十分に報いてくれる物であった。目出度し目出度し。

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たちはら

 修理中の大判カメラ、「たちはら」が、近いうち帰ってくることが今朝の電話で判明、嬉しい限りである。メーカーの社長さんとお話をさせていただき、事情をお聞きした。安心して待っていることが出来るのでまあ今借りているビューカメラで色々撮ろうと思う。

 ビューカメラもなかなか使い勝手がよいので余裕ができたら一台欲しいものである。中古品で買えば5万円ほども用意するとよいのが手に入りそう。

 それにしても、タチハラの社長さんにお聞きしたのであるが、会社の歴史が60年もあるそうで、恐れ入ったしだい。使ってみると随所に工夫を凝らしてある。日本製のフィールドカメラでは一番よいのではないかと思ってしまう。ユーザーの身になっていただいているのがお話をお聞きしていて良く分かった。今回修理からあがってきたら、シッカリ使わせていただこう。夏の雨、秋の風、冬の雪とわが国の自然環境は実に木製カメラには苛酷である。が、そのことを良く分かって設計されているようで、安心してその厳しい条件にさらすことが出来ると確信を持てた。ありがたや。

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帰ってこない

 修理に出した45カメラが帰ってこない。販売店経由で問い合わせをしてもらったら、時間がかかると言うだけでいつと言う返事はもらえなかったらしい。写真が撮れない。

 仕方がないので、販売店にあったビューカメラと言うのを借りてきた。このカメラ、重いしデカイ。今まで持って歩いていた鞄では入りきらない。別なのを用意して入れたはいいが、今後は鞄を2つと大型の三脚を1つ計3つの荷物を持って歩くことになる。寅さんは茶色の粋な鞄1つでよかったが、うーん。考えてしまう。

 ここ2週間、ニコンで撮影をしていたが、やっぱり45でとるような快感がない。大きな画面で撮る写真は、それなりに集中もするので撮ったあとの開放感が好いのであろうか。

 このビューカメラ、三脚にセットしてしまうと、めちゃくちゃ操作性がよい。大半の動作がギヤでできるので、今までの様に微妙な合わせ作業で行き過ぎたり足りなかったりということがない。これは、写真を撮ることにより集中できるというもの。大きくて重いとはいうものの、エイトバイテンに比べたら、まだまだ軽いし小さい。比較してもしょうがないがせめてそう思わないと今まで楽した分、つらくてしょうがない。

 大判カメラのことをご存じない方がこんなはなしを聞いてもちんぷんかんぷんで面白くもなんともなかろうと思う。ようは、大型バスでドライブするのと乗用車でそうするのの違いを言っているに過ぎないのです。しかし、仕上がりが35ミリフィルムの面積の13.8倍もあるから引き伸ばしたときに出てくる写真が大分異なると言うはなしなのである。普通家庭で使われる35ミリフィルムの場合と比較すると、同じ大きさの紙に写真を焼き付けたときに同じ1センチ角のなかに存在する銀粒子の数がそれだけ多いと言うこと、つまり、写真がブツブツしないで見えると言うことなのである。ウーン、こんな説明でよいのかしら。

 明日から、チョッとそこまで出かけるにも気合が入ると言うもの。なにせ、鞄2つと三脚1つであり、歩いて移動する場合はすべて肩に担ぐ格好になる。これは、相当珍妙な格好に違いない。元気なうちはまだよいが、つかれて頬でもこけたりしたら、それこそどういう風に見えるか知れたものではない。きっとふらふらして今にも倒れそうに見えるだろうな。

 スタイリッシュを旨とする小生であるから、こんなかっこ悪いのをいつまで続けられるか今から楽しみである。と、他人事にでもしておかないと実際、かなりなもんですので。

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二日酔い

 夕べ大分飲んだ。大分歌った。

 割と早く目は覚めたんだがなかなかベッドから立ち上がれない。夕べの焼酎が残っている。やっとのこと顔を洗い少し朝食をとる。ふらつく頭で運転して近所の山へ出かける。山の空気は体によいといつも思う。山の中をカメラ片手に歩き回っていると汗がでて毒が外へどんどん出て行く様に感じる。一時間ほどで頭の中がスッキリした。と同時に、それまで感じなかったあのケダモノの存在を思い出す。狐が道を横切る。ねずみが直ぐ間近で頭を出したり引っ込めたりしている。そういえば今日はこの林道でほかの人に会っていない。ということは、やつはその辺にいるんだ。急に背中の真中を汗が伝って落ちる。

 いつもの沼は霧がかかっていて対岸の花をつけた木が美しくみえる。辺りに気を配りながら撮影の準備をする。頭の上の木から落ちる大粒のしずくが顔に当たって、飛び上がるほどびっくりする。水面は静かでアメンボウの跳ね回ったあとが波紋になって消えていく。霧は露出が難しい。3コマ切って終了。なるたけ大きな音を立てながらもと来た道を戻る。さっきのねずみはもう見えない。

 車のところへ戻ったときには結構ヘトヘトになっていた。機材を積み込みしばらくボンヤリしていた。遠くではなにやらガザゴソ音がしている。車内にいれば襲われてもまあ平気である。この山へやってくるときには大型の鈴を持って来るんだが、今日はすっかり忘れてしまった。鈴をつけていてもやられるときにはやられると言うが、持っていないということがこんなに心細いとは思ってもみなかった。飲んだ次の日の撮影は色々忘れ物をする。家の壁に持ち物を書いた紙を貼ったあるんだが、今日はそれも見てこなかった。まったく、やつの姿を見なかったからよいが、思い出しただけで汗が出る。

 やつに出会ってしまったらただではすまないのである。自分に言い聞かせる。冒険は最善の準備が出来て始めてするものであると。まして、二日酔い気味の頭と、万全でない装備のときは、気づいた時点で尻尾をまいて帰るのがよいと。長生きする秘訣であった。

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再び種差海岸

 このたびの信州の大水による被災者の方にお見舞いを申し上げる。 

 上田では少しの間であるがお世話になった。近い将来またお世話になるかもしれない。旅行の折お会いした方々は大丈夫であろうか。

 さて、信州の最後のポジが出来上がってきた。ロールフィルムホルダーがまたおかしい。困ったものである。修理するか、使わないようにするか。期限切れのリバーサルを一本100円で分けてもらったのがまだ結構残っている。これを使い切ったらしばらくは白黒に集中する方がよいかもしれない。

 話は変わるが、昨日の遠征の無理が祟って今日は腰が真っ直ぐ伸びなかった。ひざも妙に重い感じがする。

 思うに体育会系が進入部員をしごくには砂浜が一番である。一キロ程を区切って何度も往復させるのである。歩かせればよい。進入部員の体力が一目瞭然で判断できると言うもの。中年も盛りの体である。無理をさせると途端に不調になる。お若い方でこのブログを読んでおられたら笑わず聞いて欲しい。ほんとのことを書いている。ほんとに辛いんだから。

 この間購入した日本で一番重くてデッカイ三脚はまだ三脚ケースに入ったままである。担いでエッチラオッチラ歩く気がこんかいの種差での経験で、失せてしまったのは言うまでもない。同じメーカーで作っている、三脚の重さを半分に感じさせるストラップと言うのがある。だが、重さを半分に感じさせたって、かかっている重さは同じではないか。つまり足腰にかかる負荷が知らず知らず肉体を苦しめると言うものであろう。それって、どうであろうか。使うしかないのも現実である。写真とは自虐的行為であったのか。

 また雨が降ってきそうである。今年の露は本当の露である。去年がたしかカラッ露であったのを思うと、この先の天候は、2年分でワンセットかもしれないなどと思ってしまう。今年は霞のかかった山風景を撮影するにはもってこいであるが、大好きなお米が美味しくならないのではなかろうか。美味しい米を食るとよい写真も撮れるのである。これ日本人の常識である。そういえば「コメコメクラブ」が再結成したそうである。石井大先生の気まぐれか。いずれにしても結構なことである。あのグループは楽しくてとてもよいと思っていたから。

 45のカメラがいつ戻ってくるのかいまだ連絡がない。一日千秋の思いである。

  

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種差海岸

 少し歩くつもりが往復12キロぐらい歩いてしまった。所要時間4時間。

 チョッと歩きすぎであった。これもひとえに東山魁夷画伯の絵の大本を見たかったからに他ならない。後日撮ってきた写真のを載せるつもりなのだが、あまりの違いに思わず笑ってしまったのであった。時代が変わったこと、人間が増えたこと、環境が変わったこと、全てそうだとしてもである。画家というものはあそこまで創作をするものなのであるなあとただただ感心するばかりである。と同時に、絵画の自由度がこれほど羨ましく思えたことはなかった。

 写真はそこにあるものを写す。「絵」を整理したかったらレンズを変えるかバックを暈かすか、風を使って「紗」を効かすか、いずれテクニックを駆使することとなる。ところが絵は描きたくなければ描かなければよい。ここは大きく異なること。当たり前のことでもある。打ちのめされた感じである。アホな自分がいることを知ってはいるが、ショックは大きいのである。とは言え、写真を嫌いになったわけはなく、より精進せねばなるまいと改めて心に誓ったほどである。

 今日の種差海岸は雨模様で、全体的に暗かった。太平洋のこういう雰囲気はむしろ好きではあるが。寂しく見えてとても写真を撮る気にさせてくれるところがかえってよい。種差駅辺りの駐車場からスタートし、入江を2つも通り越して片道2時間。途中砂で足を取られさすがのタフガイも相当難儀してしまった。へとへとになってゴールに決めていた灯台にたどり着いた。海岸はこの季節、夏の花が綺麗で、40カットほどシャッターを切った。雨で葉っぱが美しく濡れていた。住んでいる辺りでは見れない種類の花などもあり、結構楽しめたことは楽しめた。だが、東山画伯の「道」の記念碑を見つけたときのなんともいわれんあの気持ち。えーっと声を出した自分がしばらく呆然となっていたのを、なんだかもう一人の自分が面白がってみているようで、不思議な気持ちがした。

 たしかに絵の通りではあった。だが、絵と比較した「図」がなかったら、どこを描いたんだか皆目検討がつかないほど異なっていたのである。あれには参った。絵のようだったら、ミーハーと言われようが、その通りの写真を撮って喜べたであろうに。あーあ。

 二度とこういうことは止そう。オリジナルを探すのはガッカリが残るだけである。自分のオリジナルを探すことの方が、しあわせであるなあと、改めて思ってしまった。

 アホみたい。まったく。あと、これは酔っ払って書いてるのでチョッとへんかもしれません。読んでくれる方があればですが。

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はて、どうしたことか

 45のカメラを修理に出してとりあえずニコンで撮っている。これは45でずっと撮影していこうと言うちょっとした決心に対してマズイのかもしれない。何故って、小さなカメラのほうが使いやすいから。使いやすいからっていい作品が撮れるとは限らないが、使いやすいイコール使用頻度と撮影回数が多くなる、イコール、チョッといい作品が出来やすい、とまあ、そういう図式もありだろうな。

 だがしかしである。このままニコンで間に合わせてしまおうか。っとは行かない自分が嬉しい。手間のかかる45でこそ夢はかなうのであると、こうしてかわいいわが子を旅に出したからこそ分かると言うものである。やっぱり45で撮りたいのである。帰ったわが45に頬擦りしてしまうかもしれないな。

 明日は出張で八戸へ出かける。まえから東山魁夷画伯のかいた種差海岸へいってみたいと思っていた。あの有名な「道」の取材地である。しなければならない仕事をさっさとかたずけて、行ってみようと思っている。もちろんF3同行である。フィルムは白黒のアクロス。楽しみ楽しみ。

 天気が悪そうであるので、雨具が必要である。地図で見ると結構歩かないといけないようなのである。太平洋に突き出した小さな海岸が、どんな表情を見せてくれるか、今夜は早く寝よう。

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山形は山の中

 山形で親戚の法事があり、出かける。帰り道雨ではあったが途中の滝に寄ってみる。

 さほど大きな滝ではない。水量は雨降りであることもあり十分。滝特有のよい香りがしていた。あまり訪れる人もないらしく滝までの木道は架けられてからか随分経つのだろうが傷んではいない。雨で滑りやすい足元を気にしながらニコンF3と大判で使用している重い三脚を運ぶ。滝はこの季節、周囲に色々な植物を育てるもので、この滝も山紫陽花や名前は知らないが赤い実をたくさんつけた木が美しい。水の流れと花を按配良く捕らえようとするが雨に邪魔されて思うようなポジションがとれないのは残念。白黒で十数枚撮影する。F3は最近中古で購入した機械であり、露出計の具合を確かめるには丁度よい被写体でもあった。

 帰宅して早速現像をしてみる。フィルムもこれまた始めて使用するフジのアクロス、現像時間は袋に書いてある時間で処理。うーん。濃い。こりゃ駄目である。F3の露出を落として撮影するか現像時間を縮めるかしないと。やっぱり現像時間だろうな。たぶん、一分以上短縮する必要がある。このカメラとフィルムというやつ、なかなか厄介で、相性が分かるまでは色々やらかすものである。楽しみのうちであるので気楽に付き合う。

 今日の滝の側には茅葺屋根の民家がまだたくさんあった。今年の秋はここに撮りに来ようと思った。流石山形県である。まだまだ、懐かしい日本の風景が普通の暮らしと一緒にたくさん残っている。ありがたいこと。

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山百合

 近くの山へ山百合の撮影に行く。昨日の雨で花びらが痛んでいるものが多い。花を撮影していていつも思う。山の花は決して撮影者のために咲いているのではないと。花びらの美しい元気のよい花は、そういう花に限って急な斜面をその住処としている。特に花の美しい朝早くには、斜面はずるずる滑って登っていけたものではない。この時期、露の真っ盛りでもあり、中年も盛りの硬い体にあっては、曲芸にも匹敵する斜面のぼりなど言語道断。しかしである。撮りたいのである。ここで登場するものが脚立。足を開くと2メーターぐらいは稼げる。朝露ですべる斜面もこの使わないときには全く用なしの道具で快適なロケーションとなる。で、今朝のことであるが、小さいほうのしか車に積んでいなかった。

 よく思う。道具は使わなくても用意すべきであると。いつも思う。そう、過去何度そう思ったことか。だが、今朝は持っていなかった。家のどのあたりに置いてあり、出番のないその道具が、静かに光っている、そんな光景が、目の前に立ち上がる。繰り返しになるが、今朝はもっていなかった。花は今日を逃すとその場所からすぐ消えてなくなってしまう。山の花は、一日として同じ姿をとどめてはいないのだ。そのことがよく分かっているので、己の至らなさを噛み締める。噛み締めて、しかし、多分また直ぐ忘れてしまう。あーあ。

 45のカメラを修理に出しているので、手元には、ニコンしかない。ニコンしかないことが、脚立のことを爽やかに忘れてしまった原因の一つでもある。手持ちで写真が撮れるカメラであるので、何とかなることが多いから。

 山百合が群生している場所は、すごい香りがしている。好き嫌いもあるだろうが、私は好きである。好ましい女性の香りと相通じるものだとも思っている。配偶者のことではないぜ。明日、もう一度出かけてみるつもりである。明日は脚立を持って出かける。なんぼなんでも、である。

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ブログの移動ではなくて

 もうひとつブログを書き始めた。気まぐれである。

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ニコンと言うメーカー

 この世に写真機のメーカーは数々あれど、このメーカーほどなんとなく生意気に見えるところも少なかろうと思ってしまう。小生子供のころから偉くて嫌いな父親がニコンフリークで、その印象と合わさって、なおさら嫌な感じで残っていると思っている。ところがだ、行きつけのカメラ屋で、相場からいってアリエナイ価格の付いた「F3]を、衝動買してしまったと言うわけである。買ったのはボディーだけでありつまり余計な買い物なのである。

 余計ついでに今日、50ミリのニコン製古いレンズを買ってきた。持っていたハッセルのフードを出したら、追加が1300円。50ミリのf2、安売り用のやつである。そういえば、チョッと前ライカの同じくf2の50ミリを買おうとして考えているうちに忘れてしまったのを思い出した。f2にはきっと縁があるんだ。

 このカメラで何を撮ろうか、全く考え付かない。ただ安いだけで買ってしまったカメラ。しかしである、ニコンと言うメーカーのことはどうあれ、この「F3」は、存在感がものすごくある。つまり所謂オーラを発しているのである。なんだか知れないが、どっかに連れて行けと盛んに嗾けられているようなのである。ハッセルを使い始めたときも同じ雰囲気を味わったものだが。

 モノの本に出ている「ハイエンド機」、ほう、確かに値段は高かった。店でも買えそうなお客にしか触らせなかった。嫌な話である。いま、カメラ屋へ行くと、色々なメーカーのカメラが全て並べてある。ハイエンドから魑魅魍魎までである。誰が触っても、店員は文句を言わない。たまにはミニスカートのオネーさんが、聞きもしないのに色々説明してくれる。買わないで帰るのが恥ずかしくなるじゃないか。ああいうところで会うオネーさんが妙に綺麗に見えるのは一体どうしたことだろう。心なしかストッキングの中にあるあんよまで、美しく見えてしまう。関係ないが。何はともあれ、F3がやっと自分のものになったのである。これは、20歳ぐらいの自分が聞いたら、腰を抜かしてしまいそうなはなしなのである。

 話は変わるが、F3は、雨に濡れても結構大丈夫らしい。つまり、ほったらかしでいいのである。ハイエンド機である。ほったらかしていいからハイエンドなんだといまさら感心している。高い理由が分かったつもりである。

 夜毎、防湿庫から取り出してみる日々が続く。写真を撮るということより、眺めて楽しめる機械がやっと手に入った。これは大変嬉しいことなのである。

 

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写真を撮る

 来週、写真を撮りにどこかへいこうと思っている。どこへ行こう。

 大判カメラを始めてから、よく思う。メカの楽しさが無いので写真で楽しむしかないなと。ニコンにしても、ライカにしてもそのほかのカメラメーカーのカメラは、機械の素晴らしさで楽しめる。が、木と皮と後はレンズで構成されたカメラは、見てホホホと楽しめない。即撮影を要求してくるオーラがあるような気がする。いつも何か目に見えない「もの」に突き動かされて重たいカメラを担いで出かける羽目になる。そこでである。どこへ行こうか、結構悩む。出来れば一回の旅行で一枚でよいから写真に手ごたえが欲しい、と、かなり贅沢なことを考えている。スカばかりの撮影旅行では、また、即出かけないといけなくなるし。

 ガソリン代、高速代、宿泊代と食事代を考えると、写真から生活費が出てくるわけではないから、それなりにシビアにならざるを得ない。まあ、だからと言って、仕事で写真を撮ると言うのも味気ない気がするが。で、勝手気ままな旅なのであるが、節約しながらのケチ旅行となってしまう。致し方なしである。

 さて、どこに行こうかと言うことに。今回は「信州」に決めている。長野でない、信州、なのである。山岳小説?を高校生のころ随分読んだ。そこに登場していた信州は、昔から憧れの土地であった。今回決めたのは、偶然、奈良のことを考えていて、参考文献を色々物色していた中に、信州のことが出ていて、イカシタ建築物がどうもたくさんあるようなのであるから。単なるドライブにはしたくない。一枚でよいから、自分的に納得できる写真が撮りたい。ああ撮りたい。撮りたいなあ。

 写真は、楽しいのである。

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スリックの新しい三脚 

 スリックと言うメーカーは結構使い勝手のいい三脚を作っていると思う。アクセサリーに少し不親切ではあるがまあほぼ快適に付き合える。昨日そのメーカーの一番大きな三脚を珍しく新品で購入した。というか、持っていたレンズその他を持っていって交換してもらった。

 店から入荷したという連絡があり、いそいそ出かけていくと、ありました。店の入り口にドカンといかにも邪魔そうに置いてあった。その箱の大きさは、ゆうに1メートル30センチはある。え、こんな大きな三脚だったのって正直どうしようと思って、梱包を解いてもらう。ほっと一息、ぐるぐる巻きになった、しかし、小さいとはいえないブットイ三脚が登場。持ってみてこれまたビックリ、想像以上に重い。どうしよう。

 店の奥でハッセルブラッドを買おうとしている殊勝なお客さんと、いつも笑顔の絶えないAさんが商談をしている。そのAさんも、一言「でかい」といいすてて、商談続行。それにしても、いまどきハッセルを購入する御仁を、間近でみれるとはラッキー、そのひとを横目でシッカリ観察。自分も2年前ああだったのか。ハッセルを買う人は、雰囲気が「ある」・・・

 余計なことだが、そのお客さんが買っていったかどうかは聞いていないが、確かあの固体についていたレンズは、501CMの専用レンズであったと思うんだが、あの人知っていたんだろうか。ほんとに余計なことであるが。

 次回ハッセルを購入するときは、SWにしようと思っている。その超広角レンズのついたカメラは、是非一度は使ってみたいと前から思っていた。なかなか手が出ないのは、その値段の高いことによる。正直、カメラとしてはぜんぜんなっていない。なにせ、写真にするまではどう写っているかほんとのところ見当が付かないのだから。今使っている大判カメラも一部似たような性格を持っているが、その究極がハッセルのSW系ではなかろうか。実は、そこがたまらなく面白そうなのである。このカメラを使う人は、絶対その面白さの虜になっているはずなんである。私見ではあるが。まあ。

 三脚のはなしである。まだ使用していないその三脚は、自分の三脚置き場の最も良い位置に鎮座ましましている。はっきりいって使う目的が無かったら、邪魔以外の何ものでもかなろうな、この三脚。持って歩くのに、専用の台車が必要かもしれない。しかし、である。その超ハイポジションから、一点風景を狙った場合のことを考えると胸が躍る。一生の間、何回登場するか、分からんところも、大判カメラ的である、別の意味で。

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カラー写真

 植物を撮る時にいつも悩むのがカラーにするか白黒にするかということ。

 葉っぱは緑色であり、見る人はたいがい分かる。だが、同じ緑色のくくりにだって色々あるのである。したがって、何か特殊なことを伝えたいのでなければ、やっぱりカラーがよいのである。と、また最近思っている。白黒の写真環境ができあがったので、撮る写真の全てを白黒にしようと思っていたのだが、色のある世界での出来事は色のある再現をするのが自然である、との当たり前の結論を持って簡単に決心が変わったということ。

 それにしても、である。カラーでたとえ69で撮影しようとも、やっぱりデッカイ写真は嬉しいのである。何が嬉しいかと言うと、よく写っているのである。何度も書くことになるが、写真はおっきいフィルムが絶対得である。その被写体の細部まで、細大漏らさず写っているのである。本物より明るかったり暗かったりするわけであるが、それがまた、新しい感動なのである。写真はその通り写っていれば良いのではあるが、その通りでない場合のほうが、結構感動するのである。写真に撮ったから美しく見えることだってあるのである。結果、嬉しいのである。

 よくもここまで撮れてくれたと一人悦にいるのである。黄色い色の山によくある実が、写真に撮ることで、より光って見えるのである。美しく、食べたくもなる。食べれるかどうかは知らないが、そう見えるんだから仕方がない。いつも苦労している露出の悪戯である。予期して撮影して入るが、その通りだったことと、それ以上であったことが、たまらなく心地よい。また、写真を撮ろうと、勇気を貰えるのである。

 写真の楽しさは、自分で撮った写真を愛せるかどうかでまた変わると、最近思う。他人がどう言おうがである。

 まして上手いなんていってもらったら、瞬間、天にもぼってしまう自分が切なかったりもするが・・・・・

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ホルダー

 むかし西部劇をみていて一番カッコよかったのが「駅馬車」、白黒でいて、色が見えるようですごいと思ってみていた。西部の男たちの腰には、ガンホルダーが光っていたっけ。

 いま、とても苦労しているホルダーがある。もちろんフィルムを入れるためのホルダーである。45のカメラでブローニーフィルムを使える優れもののはず。が、フィルムを巻き上げたかどうかは全て使うこちらにまかされている。つまり、このごろよく経験するのが予期せぬ多重露光。3こま2回ずつ露光するので、出来上がったフィルムは一体何が写っているのかわからない、なんていうこともある。計画的でない写真はつまり写真でなくなるということに。

 45のフィルムは結構高価である。であるから、くだらない失敗はしないように気をつける。ブローニーフィルムもそれなりによい値段がするので、そうあるべきなのだが、これがどうも緊張感に欠ける。昨日もホタルブクロの活きのいいのがあったので、近くを通る車から発生する風をこらえながら3コマ撮影した。けさ、庭に綺麗な花が咲いていたので、よしよし、パシャっとよい気分でいたら、あれ、昨日の3コマ目巻いたっけ。エー、もしかしてまたやってしまった?この気分は、経験者でしか分からないはず。汗をかいた写真が、一瞬のうちに木っ端微塵になってしまう。

 写真は楽しい。上手くいっているうちは人生も楽しく思える。だが、こういうあまりにくだらない失敗をしてしまったことに、現像前に気づいてしまったりするとこれはもういけない。下手をすると気を失いそうになる。自分の人生がとたんに脈絡無くオーバーラップする。ことに恋愛のときにやってしまった赤面物のあの経験。関係ないが関係あるらしい背中に汗が一滴流れるほどのあのいやな感じ。

 さらにもうひとつ。メーカーに、所謂マクロレンズのような使い方をするにはどんな機材を利用したらよいか問い合わせをした。先から返ってきた返答は、すこぶる振るっている。が、よせばいいのにさらにRe、で、再質問をやらかしたもんだ。この質問、よく考えたら当たり前というか、すべきじゃなかった質問というか。メーカーの担当者から、その後何もいっては来ない・・・・・。

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自信が無かった露出

 先日秋田へ出張した折、山に登って45で写真を撮った。いつものことでこの露出で絶対大丈夫などど言う自信があるわけは無く、結果が出るまでかなりドキドキであった。比較的露出で上手くいった部類のポジが出来上がってきた。「絵」はいまいち気に入らないがHPにはあげておいたのでご覧ください。

 写真を撮るときに今もっとも気を使うのが露出。(多分、このさきもずっと同じだとは思うが)今風の一眼レフでも持っていって、それで露出を決定すれば間違った露出でせっかく苦労した写真を台無しにすることは無かろうが、自分の露出に固執しているので、こらえるところ。

 最近、カラーで撮ることが多くは無い。白黒のフィルムは全て自分でしあげて、焼付けまで手元でできることから、撮影スタイルを白黒の環境に合わせている。が、カラーの露出がうまくできると、カラーで撮りたくなってくるから困ったもの。修理に出していたロールフィルムフォルダーがやっと出来上がって帰ってきた。カラーはコスト的な問題から、我慢して69で撮影することにする。所謂ブローニーサイズで、中判の範疇。

 梅雨に入り、蛇腹が付いたカメラで屋外で撮影することが多少は憚られる季節。入江泰吉氏は、雨の日や霧の日に好んで撮影に出かけたと本にある。蛇腹は濡れると乾くまで結構時間がかかる。うっかりすると元どうりに乾かないこともある。だが、カメラは使って何ぼだと思っているので入江氏の真似ではないが、雨だろうが風だろうがやっぱりもって出る。それなりの工夫もひつようで、手製のビニルガッパをつけることになる。鞄の出し入れが大変であるが、撮影には必需品である。

 しばらくはこのままの機材で撮影を続ける。雨が降ろうが風が吹こうがこのままで。

 ドイツ製の丈夫なカメラは過酷な条件のときにきっと真価を発揮するんだろうなあなどと勝手なことを考えている。だってあれだけ高いんだから、あったり前ジャン。

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入江泰吉写真展

 2時間かけて酒田の土門拳記念館へいってきた。酔狂。

 入江泰吉の「生」写真は実によい。歴史のいろいろをあるいは亡霊を、上手に生かしているように見えた。なかなかああは写真を撮れるものではない。かなわない写真家がまた増えた。同時に、同じビッグフォーマットを使っていることが非常に嬉しかった。単純である。

 目標とする写真がまたまた増えた。困ってしまう。あれもこれもと、どうしよう。

 いちまいいちまい、丁寧に撮影するよりほかは無い。モータードライブなど存在しない世界である。よく見て、考えて、シャッターを切る。うーん、素晴らしい。

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久しぶりの暗室作業

 大判カメラで撮影したフィルムが大分たまってきた。引き伸ばし機が当家に来てから初めての暗室作業である。気候もよくなってきて、液温の管理もあんまり気にしないでもよいので助かる。

 ヒカリをあてて、現像液に浸しピンセットでゆする。今日は六つ切り印画紙である。フィルムが45であるので六つ切りの縦横比がピッタリなのである。黒々として見える写真は案外明るいところで見ると焼きが足りなかったり現像上げが早かったりで加減が難しい。その点、使用しているポリコート印画紙は融通が利かない代わりに当てたヒカリ分しか現像が進行しないので結構気楽に見ていることが出来て、黒々感であせることは無いところがいい。これを使い切ったらバラ板を買ってこよう。

 暗室は普通の部屋であるので喚起しないと息が苦しくなる。したがって2,3枚焼いたら窓を開けて空気を入れ替える。このときが結構気持ちいい。停止、定着薬のにおいといったら出来ればかみたくないと思えるほど強いのである。喚起終了で窓を閉める。新しいフィルムをネガキャリアーに入れる。試し露光をしてから加減して、本焼きである。現像液、停止液、定着液、水と順を追って処理していく。

 水を入れてあるバットに焼き上がりを大分ためておいて、そろそろ限界だと思えたら今日は終了。現像液と停止液は廃棄し、定着液はポリ瓶に。あとは風呂場で印画紙を水洗い。風呂に入りながら出来を眺める。なかなかいいじゃん。

 また一月後ぐらいに、たまった現像済みフィルムを引き伸ばす。この次までには69のネガキャリアも用意しないと。次から次と、よくも欲しいものが出てくるものである。

 ではまた。

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引き伸ばし機

 大判フィルムを伸ばせる機械が今日やって来た。古いが頑丈そう。庭先で雑巾を使って分解掃除。まずトップカバー、はずしてごしごし拭く。次にトップカバー受け。これもごしごし。次は問題のコンデンサーをはずして水洗い。水道の蛇口のところへ持っていって水をかけながら丁寧に手でこする。日に翳してみて、オオビューティフル。さらにティッシュでごしごし拭く。たぶん新品の輝きが戻ったと思われる。ヘッド最下部をつけたままごしごし。この辺でもう真っ白だった雑巾はみるも無残な茶色のぼろきれと化してしまった。なんでも20年は使用されていなかったらしい。コンデンサーぐらいは新品を買う覚悟でいた。しかし、水洗いという荒業で難なくクリアー。

 高くて買えないものがハッセルブラッドとこの引き伸ばし機だったのだが、いただけるとは全く夢のようである。ついでに誰かハッセルもくれないかしら。

 この引き伸ばし機を頂に上がるとき、3番目の息子と一緒に行った。500円の駄賃で喜んで引き受けてくれた。助かった。あんなに重いとは思ってもみず、一人であったら、今頃筋肉痛に悩まされていたところである。子供は作っておくべきであると改めて思った。勝手な親である。いつもは金がかかるとぼやいているのにである。

 スキャナーで取り込んでいたがこれからは印画紙にプリントできるのである。非常に嬉しいことである。HPにあげるには、やっぱりスキャナーであるが。

 ファインプリント目指して楽しむことに。

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間の抜けた話

 最近買ったものの中で一番悲しい話

 わが大判カメラにカラーフィルムのコスト削減が突きつけられ仕方なくロールフィルムホルダーなるものをお江戸にある某カメラ店で購入。これが実は今回のお笑いの種となる逸物である。こちらも無知という罪があるのでいたしかたない。何本かフィルムを通してみて、策を講じないと余計な光がフィルムに写ってしまうことに気はついていた。だが、それが正常なのであろうということで気にしていなかったのである。が、その話を行きつけのカメラ屋で知り合いに話したのがことの始まり。いわく、「そりゃおかしい」。あわててメーカーに問い合わせということに。

 使い慣れるまではいろいろなことが起きるもの。中古の哀しさである。普通、カメラ関係の品物は外観と売れ筋かどうかで中古品の値段が決まるらしい。大判カメラに関してはどうも外観だけで値段が決められている節がある。今度のことで良く分かった。つまり売れ筋というのが存在しない、または存在しにくい、あるいはまたとってもディープな世界で排他的、少し違うか。まあいい。何を言いたいかと言うと、値落ちが激しくて買いやすい、ということ。店も値段を下げないと買ってもらえないという現状からかどこもありがたいほど物の値段が安い。安いから何が起こっても然程動じない。貧乏性。

 安い安いと連発したが、たとえばレンズ。H社あたりのレンズは手に取ると、ふふふと自らの口元が弛んでくるほどに何かが起こりそうな予感を感じる。だが、この大判のレンズは、カメラにつけて見ないと何が起こりそうなのかもわからないのである。家にあるカメラをいじったことのあるその辺の小学生なら、一眼レフのレンズを見せればこれは高そうなきっと家の宝の一個であるなんてことぐらいは考えるかもしれない。そして、落っことしでもしようものなら大目玉を覚悟するだろう。が、大判のレンズはまずその姿から、一体何に使うものか分からない、はず。虫眼鏡にしては大きいし重いし、星を見る望遠鏡にしては向こう側がちっちゃくしか見えないし、文鎮にしては変な格好をしているし、一体何に使うんだろう、と首を傾げてしまうことだろう。つまりその存在は現代社会において全くその目的を知らない人にとっては無用のもの、一生の内一度もみることなくすごせるものなのである。使う人しか知らないレンズであり、使う人にすれば無くてはならぬものであるのにである。これでは、市場のごく限られた需要より見込めないのであるからメーカー様が何十万円をつけようが、中古市場では、とても買いやすい商品価格となってしまうのである。と、不十分な経済のお話はさておいて、つまり安いので気軽に買ってしまって、壊れていることにきずかずとも使ってしまえる、使う方法がある、たとえきずいても安いんだからシャーないかと諦められるということ。今回の買い物も、その特性が十分に発揮されているわけである。

 修理に出して後どのぐらいで戻ってくるか、結構楽しみなのである。あれがあればいちいち黒い布をかけずとも美しいカラー写真が撮れるのかと思うと気分はうははなのである。大判カメラなのに簡単に写真が撮れるなんてことは、普通ありえないことなのである。いや、面倒な作業が当たり前なのでまるで中判カメラ並みの作業で写真が撮れるのが非常に嬉しいのである。はやくこいこいロールフィルムホルダーやい。

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古いカメラの掃除道具

 古いカメラを買ってきたとき張ってある皮が汚い事がよくある。ティッシュではもたないし、わざわざお店で科学雑巾を買ってくるのも面倒なとき。卓袱台を掃除する雑巾なら直ぐそこにいつもある。時々納豆のにおいがするけれども、買いにいく手間と拭きたいカメラの汚れ具合から今回はこれでよいと思えてしまうことがほとんどである。水で洗ってギット絞ってごしごし拭く。さらに水で洗ってまたごしごし拭く。結構高級な機械でもかまうことは無い。どんな汚れだか分かりはしない。とにかく汚いのである。おろしたての雑巾はこの2度ぶきで茶色くなってしまうことが多い。なんと今度はこの茶色くなった雑巾で卓袱台を拭いたり子供たちが手を拭くことにかなり抵抗を感じることもある。それほど汚いことがよくある。

 外国製の当時ハイカラなカメラは、こしてとても綺麗になる。そのかげに、茶色くなってゴミ箱へ捨てられる雑巾が一枚あったことはやがて忘れ去られてしまう。

 この間買ったスウェーデン製のマガジンは、こうしてとても綺麗になった。文鎮としての利用価値よりほか今は無いがとても見ていて気持ちがよい。それだけでよいのである。繰り返すがその影に無念の死を遂げた茶色の雑巾がいたことは・・・

 

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写真のいろ色艶

 色の付いた写真をカラー写真と呼ぶ。色が付いていればみなカラー写真である。白黒の写真は白黒の色が付いているのだからカラー写真である。屁理屈である。

 花をカラーで撮ると、花の色で写る。見ていて美しいし第一せっかく色が付いているんだからカラーで撮るのが正しい。だが、色をつけて撮るととたんにつまらなくなる花も多い。たとえばバラの花。あの花は白黒でこそその美しさを正しく表現できる花色なのである。ためしに今流行のデジカメでバラの花を撮ってみるとよい。変換ソフトで白黒にしてみてください。比べるときっと白黒のバラの写真が色っぽく見えます。なぜって、虫は白黒の世界で生きているんです。バラの花の色も白黒にしか見えないんです(最近テレビで見た)。それでも虫はバラの花に恋焦がれて来るんです。人と虫は一緒ではないが。

 人間だけが色を見ているんです。形をみて、色を見るほうが色々余計なことを考えなくて済むんです。だからヌード写真は白黒がいいと思います。色気艶気は決して色ではないと思っています。ヌード写真を撮ったことはありませんが。きっとそうだと。

 花は白黒がいい。今年桜の花を撮っていてそう思いました。

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マガジン

 今手元にハッセルブラッドのマガジンがある。昨日ブログを書いているときには手元に無かったもの。じっと見つめて触ってみて、懐かしいような馬鹿馬鹿しいような思いがしてくる。マガジンを手に入れたということはカメラの本体とレンズを手に入れる前提があるわけだ。が、大判でやっていくことを決めたのだから、路に外れると言うものである。

 もっと簡単に写真を撮れる道具が世にあふれてから久しい。露出計すら本体に無いカメラなどと言うものはスタジオででも使用するのでなければややこしいし限りなのである。刻々と変化する光の状態をいちいち測定器を使って測り、セットしなおしシャッターを切る、まるで儀式のような手順を経て写真を手に入れることになるわけである。そのややこしい手順を踏まなければならないカメラの付属品であるマガジン。じっと眺めて、手にとって撫で回し、昨日などは買ってきてから雑巾を使って隅々まで掃除をしたのだ。見違えるほど綺麗になったその輝きを見て自分が間違ってなかったことを自分に言い聞かせて、ほっとしている自分。米にするとおおよそ100キロは買える値段を支払ってきたのだ。もちろん家内には内緒なのである。まして、カメラの本体とレンズはまだ無いのである。ずっと内緒のまま、買ったことをいえる日は1年先か、それとも・・・

 古いものをいつくしむことは悪ではない。だが、役に立つことが前提にはなりはしないか。自分の国の古いもの、たとえば仏像。歴史を大事にする態度である。が、このマガジンは、遥かかなたの行ったことも見たこともないスウェーエデンの工業製品なのである。それも、今は全く役に立っていない。確かに古い、少なくも生産されてから40年は経過しているだろう。重ねて言うが、工業製品である。外国の工業製品を、薄暗い部屋でひとり秘密を抱え撫で回す自分。

 度を越している。あらためて、そんな自分に呆れている。季節が春でなければ許せないかもしれない。しばらくの間、このマガジンは机の上で埃をかぶりながら、文鎮の代わりを務めることとなる。邪魔なほど大きいけれど。ははは。

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